【コロナ禍の世界】コロナ禍の大学 教員からの「現場の声」
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■コロナ禍は、各大学の在り方を大きく揺さぶった。特に、オンライン授業導入の過程では、暗中模索、試行錯誤と大きな揺れがあり、教員も学生も翻弄された。
■各大学は、オンライン授業導入(授業革命)により何とか難局を乗り切り、落ち着きを取り戻した。しかしそれは、学生と教員の我慢の上に成り立っている「仮の姿」に過ぎない。
■大学の本質に立ち返れば、いずれはアナログの世界、すなわち、対面授業に軸足を戻すことが必要と考える。
15年以上前から首都圏の五つの大学で講師として英語、英文学を教えているが、この3月以降のコロナ禍での数々の体験は、これまでの経験知を吹き飛ばす難題の連続だった。以下に記すのは、筆者の限られた体験談で、どこまで一般性を有するか分からないが、大学のあるべき姿を念頭に置きつつ、オンライン授業を大幅に取り入れた今回の事態を含め、「現場の姿」「現場の声」を、若干の提言とともにお伝えしたい。
暗中模索の4か月

4月7日に政府が発令した緊急事態宣言を受けて、各大学は
各大学はオンライン授業導入に本腰を入れ、膨大な資金を注ぎ込んで設備を整えた。同時に各教員には、大学側が作成した「オンライン授業の進め方」というマニュアルが配布され、教員はこれにより、新たな体制に組み込まれた。
筆者が所属する英文学関係の学会仲間から聞いた話も加味すると、コロナ禍という未曽有の事態に、多くの大学が混乱した。情報が
通常、大学の決定事項は、理事や執行部、教務担当の教授を通じて各教員に伝えられる。だが、今回は、大学執行部の決定を早とちりして指示を出し、後にそれを撤回することで、教員に余分な負担をかけた教授や、不明瞭で不明確な指示をぎりぎりの段階で出し、無理な対応を強いた教授などもいたようだ。
つまり、混乱には「人災的」な色彩があった。大学という組織は、ある意味で閉ざされた世界であるため、社会からは特別視されることが多いが、「上層部の力量により、現場が影響を
むろん、きつい経験を味わったのは大学だけではないだろう。企業であれ、農家であれ、文化産業であれ、宗教界であれ、メディアであれ、国内のほぼすべてのセクターが同様の厳しさを味わったはずであり、大学だけが特別の事態にあったわけではない。
「授業革命」とそれなりの安定化

一方で筆者は、前期全般(4~8月)を通じて、学生が全国のどこに散らばっていても、彼らに授業を供することができること、すなわち、距離を超越したオンライン授業の威力と利便性を実感した。まさに革命的転換であり、各大学は、コロナ禍の逆境と逆風を、デジタル・テクノロジーによって救われたということだ。この大学史上画期的ともいえる「革新」には、正当な評価が与えられるべきだ。
前期も後半になると、多くの大学で、オンラインをベースとする新体制が定着し、大学執行部も、教員も、学生も、「新しい枠組み」を前提に、冷静な対応をすることが可能となった。混乱はあったものの、各大学は、何とか難局を乗り切ったわけだ。もっとも、この「安定」は、教員、学生の我慢と辛抱の上に成り立った面があり、「本来の姿」と言えるものではない。オンライン中心路線は、あくまで緊急避難的な「仮の姿」であり、中・長期的には対面授業中心の路線に復するべきと考えている。
では、オンライン授業の実態はどのようなものだったか。多くの大学で実施されたオンライン授業の形態を整理すれば、Zoomをはじめとする「リアルタイム(同時双方向)型」と、大学独自のシステムやMicrosoftのアプリ、Teamsなどを用いて学生に課題を出し、提出させる「オンデマンド型」との二つに大別される。
「リアルタイム型」なのに表情が見えない
「リアルタイム型」は、画面を通してとはいえ、学生と向き合いながら講義を行えることが最大の利点だ。筆者は、受講生を小さなグループに分けて話し合いの場を持たせることができる「ブレイクアウト機能」を駆使して、クラスメートの顔も知らない新入生同士が友人となる機会を与え、相乗効果を生み出すことに努めた。
ただ、Zoomについては、学生のプライバシーを尊重すべく、画面をオフにしている学生に対し、オンにすることを強制する運用は控えている大学が多い。「身支度やお化粧をするのが面倒だ」「散らかっている部屋を見られたくない」などの理由で、画面をオフにする学生も少なくない。筆者自身もZoomの画面を通して、学生の家庭内の会話が聞こえてきたことがあった(「この人が英語の先生なの?」という保護者らしき人物の声が聞こえた)。
こうした点を踏まえ、結局「真っ暗な画面」に向かって講義した教員が多かったようだ。これは各大学で多くの教員を悩ませた問題で、プライバシーをどう捉えるか、再考する必要性がある。Zoomには背景を変換できる「バーチャル背景機能」があるため、学生の懸念の何割かは解消するように思われるが、そのためには学生の協力が不可欠であり、学生の懸念に十分配慮し、なおかつ教員にも納得のいくようなルール作りが何よりも必要だ。
ただ、学生と教員の双方が満足できるルールを作るのは容易ではない。そのためか、来年度からはZoomによるオンライン授業での「顔出し」を強制することを決めた大学も多い。
じっくり向き合える「オンデマンド型」
教員が前もって課題を与え、学生は、自分の都合に合わせて成果を提出する「オンデマンド型」では、必要に応じて事前に授業の教材や録画された講義を配信する。学生は自分の好きな時に学習すればいい、というのが最大の利点だ。その反面、教員は四六時中、学生からのコンタクトがあることを覚悟しなければならない。休める時間がなくなるのも事実だ。
前期はZoomなる「新兵器」が知られるようになった直後ということもあり、多くの教員が「Zoomで授業したい」と考えた。学生サイドにも「Zoomでないと(本格的)授業とは言えない」との思い込みがあったようだ。
しかし、後期(9月~)になると、じっくりと時間をかけて教員と向き合うことができ、かつ教員に個人的に気軽に質問できるのは、むしろ「オンデマンド型」だということが分かってきた。この結果、Zoomよりオンデマンド型の方がいいと考える学生が増えたようだ。Zoomによる長時間授業は、学生にも、教員にも、想像以上に体、特に目に負担をかけることから、「Zoom fatigue(ズーム疲れ)」という言葉が聞かれるようになった。
筆者の体験でも、画面を何時間も凝視し続けることは、体力的にかなり厳しい。ビジネスでリモートの会議をやる場合より高い集中度が必要なことから、消耗度はより高いように感じる。それも関係しているのか、米ニューヨーク市では、セキュリティーの
対面vsオンラインに優劣はあるか
コロナ禍で前期の授業のスタートが遅くなったことから、後期の授業は総じて通常よりも早くスタートした。全国では2割の大学が対面授業に戻ったと聞く。筆者もいくつかの大学で半年ぶりに対面授業を行った。その結果、「オンラインと対面授業にはそれぞれに一長一短があり、どちらが優れているかはにわかには判断しがたい」ということに気付いた。


対面授業は、学生の表情を読み取り、コミュニケーションを図りながら授業を運営できる利点がある。一方、オンライン授業にも遠方に住んでいる学生同士を「束ねて」授業を行えるという長所がある。オンライン授業でも、学生の表情を読み取り、コミュニケーションを図り、1人1人の課題をチェックし、フィードバックすることにより、学生の習得度を知ることはできる。
自分の体験をベースに言えば、対面式とオンラインのどちらが優れているか、といった議論に、あまり意味があるとは思えない。ある教育評論家がテレビのワイドショーで、コロナ禍での大学のオンライン授業について、「アナログから抜け出せないのは大学の病理だ」と述べていたが、筆者の同僚たちはこぞって「それは見当違いだ」と言っていた。アナログの長所を軽視した発言というべきだろう。
Zoomでの授業は、サイトのIDとパスワードが分かれば、どこからでもアクセスでき、アクセスしていれば授業に参加していると見なされる。画面をオフにしても問題がないため、それをいいことに、Zoomの授業中にゲームに興じていた学生がいた(画面はオフにしたが、スピーカーがオンになっていたため、音が筒抜けで、他の受講生にも知られてしまったが)。指名すると、「バイト中なので答えられません」と言い返した学生もいた。
今の学生の多くは「与えられること」に慣れており、自ら意欲的に学ぼうとする姿勢が足りない。学ぶことに消極的な学生は、「さぼり」が習い性になっている。高校1年生程度の学力しかない学生も多く、さぼれば学力の格差は開く一方になる。
こうした学生の「二極化」は、コロナ禍以前の「対面式」授業の時から懸念していたが、コロナ禍で教員がオンライン化に忙殺され、学生への目配りが不十分になって、より顕在化しているように思えてならない。コロナ禍が大学生の学力低下を招きかねないとすれば、問題は深刻だ。
ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、「コミュニケーション・ツールとして期待を集めたデジタル・メディアは、人々の心をむしばみ、社会を壊すことになる」と述べたという。過激な言葉ではあるが、一面の真理を含んでいるのではないか。大学教員の中にも、「オンライン化した大学は、元には戻れない。いや、戻るべきでない」という声はある。しかし、オンラインには「人間的な触れ合い」がない。教員と学生はもちろん、学生同士の関係を築くにも「触れ合い」は不可欠だ。緊急避難的にオンライン授業に頼るのは仕方ないとしても、中長期的には、教育の基本に立ち返って対面授業を原則とし、オンラインは補完的役割にとどめるべきだと確信する。
そのためには、まず「〇〇先生の授業はよく分かる」「△△先生の授業は魅力的だ」と学生に感じてもらうことが必要で、教員の側の心構え、力量が極めて重要になる。仮にどこかの大学で、大多数の学生が「オンライン授業の方がいい」と語ったとすれば、それはその大学の先生(の授業)は魅力に欠けると告発されたのと同じだ。大学の将来、大学の魅力、大学のアイデンティティーの何割かは、結局は教員にかかっていると言っても過言ではない。
対面授業が再開された初日、教室で教員に接し、友人に囲まれた学生たちは、みな童心にかえったようだった。うれしくて仕方ないという気持ちが体全体からあふれ、注意の目を配らなければ、今にもハグをしそうな勢いの学生もいた。
その有り様は遊園地や幼稚園のような

この学生たちの表情には、大学のもう一つの本質が示されている。大学はコミュニティーであり、帰属意識を満たすために大学に入る学生は少なくないのだ。オンライン授業だけでは、教員も学生も帰属意識、コミュニティー意識を
教員の研究活動も後退している
最後に、大学教員の研究活動について考えてみたい。大学教員は専門分野を研究し、見識・知見を深め、その成果を学生に還元する役割を担っている。しかし大多数の大学教員は、コロナへの対応に追われて研究を後回しにせざる得ない状況にある。学問的進歩が阻害されれば、大学教育の質自体が劣化する。筆者が所属するシルフェ英語英米文学会の木村聡雄会長から5月中旬に届いたメールには「コロナの中で厳しいとは思うが、我々は歯を食いしばってでも教育研究を進めていかなければならない」という趣旨の悲痛なメッセージがつづられ、身の引き締まる思いがしたが、これは決して大げさな警告ではない。
スイスのビジネススクール「IMD」が世界63の国・地域を対象に行った世界人材ランキングによると、コロナ感染拡大以前の段階で、すでに日本の大学教育レベルは世界で51位まで低下している。このままでは、コロナが終息しても、日本の大学に明るい未来があるとは思えない。大学全入時代になって久しいが、まずは「レジャーランド」と呼ばれる大学の在り方を根本から見直し、研究機能に軸足をシフトすることが重要になる。中・長期的には、研究支援予算の抜本的拡充を図るなど、大学の研究機能の強化に国をあげて取り組んでもらいたい。
菅首相の初めての所信表明演説(10月26日)に、高等教育・研究の重要性についての言及がなかったのはいささか残念だ。コロナ禍の克服は、ダメージを受けた大学教育の復活ぬきに成し遂げることはできない。
