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「フーテンの寅さん」に魅せられた元駐日スリランカ大使

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POINT
■昨年末まで駐日スリランカ大使を務めたダンミカ・ディサーナーヤカさんが8月に亡くなった。

■日本で大学院を修了して日本文化に関心が深く、特に映画「男はつらいよ」に傾倒していた。

■欲のない寅さんの生きざまが、スリランカの上座部仏教(小乗仏教)の僧侶に似ていると考え、仏教文化の共通点に注目していた。

■急増する同国留学生から第2のダンミカさんが現れ、友好の絆を強めてほしい。日本側も途上国との関係維持・強化のモデルケースとしてスリランカにもっと注目すべきではないか。

駐日大使を4年余り務め、先ごろ亡くなったダンミカ・ディサーナーヤカさん(家族提供)
駐日大使を4年余り務め、先ごろ亡くなったダンミカ・ディサーナーヤカさん(家族提供)

 2019年末まで4年余り駐日スリランカ特命全権大使を務めたダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ(Dammika Ganganath Disanayake)さんが、病気療養中のスリランカ現地で2020年8月に亡くなった。62歳だった。ダンミカさんは親日家という単純な言葉ではおさまりきらないほど、日本に深い敬意を抱き、特に映画「男はつらいよ」には人一倍の愛着を持っていた。我が国のメディアがその逝去を報じていない「日本愛に満ちた元駐日大使」を、遺族や知己への取材と故人の著書から紹介する。

調査研究本部記者 佐藤良明

東海大で博士号を取得

 ダンミカさんと日本とのつながりは1980年代にさかのぼる。日本政府が所管する「青年の船」(当時)事業のメンバーとして85年にニッポン丸に乗船して来日したダンミカさんは、アジアのフロントランナーである日本への関心を深めた。旧友のように接してくれた日本の若者たちにも感激し、筑波大で日本語を学ぶ。その後、東海大の大学院文学研究科に進学し、93年には同大から博士号(文学)を取得している。

 スリランカ帰国後は母校のスリジャヤワルダナプラ大学でマスコミュニケーション論の教員を務め、その深い学識から最終的には同国の2大国営テレビ局のトップを歴任。その後、駐日大使に任命されて15年10月に再び来日した。

 筑波大、東海大で約7年間学んだだけあって日本語は滑らかだった。特命全権大使の信任状を天皇陛下に渡す式典(捧呈(ほうてい)式)では、「捧呈のため参内した」旨を大使が述べるが、ダンミカさんは日本語でその口上を行ったという。駐在期間中に日本語を覚える大使はいても、着任時に日本語を口述する全権大使は極めて珍しい。

一番の理解者が手がけた翻訳

 19年9月には、『パニワラル~駐日スリランカ大使が見たニッポン』」(創英社/三省堂書店)という著書を出版した。スリランカの現地紙「ランカー・ディーパ」に10年から連載していたコラムのうち25編を抜粋した。パニワラルはスリランカの伝統的な菓子の名前だ。

ダンミカさんのコラム「パニワラル」は、スリランカでシリーズ書籍になっている
ダンミカさんのコラム「パニワラル」は、スリランカでシリーズ書籍になっている

 スリランカの公用語であるシンハラ語で書かれたコラムは、川崎市宮前区にある泉福寺の浮岳亮仁(うきおかりょうにん)副住職(50)が翻訳した。90年代後半にスリランカに語学留学した浮岳さんは、知人からダンミカさんを紹介され、ダンミカさん宅に下宿しながら地元の大学でシンハラ語を学んだ。

 浮岳さんの夫人サウミャーさんは、ダンミカさんの大学での教え子だ。出会いの機会を作ってくれたダンミカさんが再来日した後は、食事や買い物といった日常生活であれこれ面倒を見る一番近い知人として深く交流してきた。

翻訳した「パニワラル」を手に、ダンミカさんの思い出を語る浮岳亮仁さん(川崎市・泉福寺で)
翻訳した「パニワラル」を手に、ダンミカさんの思い出を語る浮岳亮仁さん(川崎市・泉福寺で)

 著書では、日本で触れた様々な伝統・文化などが紹介されている。魚を生で食べる習慣はスリランカにはなかったが、80年代に「青年の船」事業で訪日した際には、各国の参加者の中でただ一人、刺し身を食べることができた。刺し身を「おいしい」と感じて、それ以来好物になったこと。「ワサビの強烈な刺激は舌で感じるのではなく脳天で感じる」と記している。浴槽に()かる習慣もスリランカにはなく、最初に留学した筑波大の寄宿舎で日本式風呂を目にして驚いたこと、肌が黒いために公衆浴場では日本人から見られて気になったことなどが率直に(つづ)られている。

 一方で、「日本再発見」とでも言うべき、私たちが見落としがちな日本の美しさにダンミカさんならではの視点を示したエピソードもある。

 「サクラ」と題した文章では、桜の季節に夫人と公園を散歩し、散った花びらのじゅうたんに夫人を座らせて写真を撮影し、応募したコンテストで最優秀賞をとった話が記されている。その審査評は「日本人は咲いている桜には心()かれるが、散った花に気を留めることはあまりない。この写真は私たちが普段向き合わないものの美しさをとてもよく引き出している」という内容だった。

「男はつらいよ」寅さんへの傾倒

 東海大学で大学院を修了したダンミカさんの博士論文のテーマは「山田洋次監督の映画芸術に関する批評的研究~特に『男はつらいよ』シリーズを重点に」だった。父親が映画監督だったこともあって、映画への造詣・関心が深く、日本と日本人を理解する研究素材として「男はつらいよ」を選んだのだ。

「寅さんは欲がなくお坊さんに近い」と語るダンミカさん:BSジャパン(現BSテレ東)の映像より
「寅さんは欲がなくお坊さんに近い」と語るダンミカさん:BSジャパン(現BSテレ東)の映像より

 88年、山田洋次監督に「男はつらいよ」を研究したい旨を申し出たこともある。すると「外からではなく中に入って研究してみては」と、山田組への参加を許され、「男はつらいよ寅次郎サラダ記念日」の撮影現場で山田監督に同行するなど、寅さん映画の制作を体感したという。あるネット番組でダンミカさんは「再来日後に山田監督と再会し、監督は大使就任を驚いていた」と語った。

 BSテレ東では現在、『男はつらいよ』シリーズを毎週土曜日に放送している。「寅次郎サラダ記念日」を放送した18年1月には、本編放送前にダンミカさんがビデオ出演し、こう語った。

 「同作品の撮影現場に居合わせ、三田佳子さんが冷蔵庫を開ける1秒ほどのシーンで、山田監督がわざわざ冷蔵庫の中を確認して、『卵の位置はここ』などと細部にとことんこだわる姿にびっくりした。監督がそこまで考えて映画を作ったのが、寅さんの成功の要因(のひとつ)ではないか」

「(寅さんは)お坊さんに近い。あまりにも欲望がなく神に近い存在」

 19年に放送された東京MXテレビの各国駐日大使を紹介する番組では、帽子、ジャケット、シャツ、腹巻き、トランクといった寅さんのコスプレで柴又を歩くというユーモアたっぷりの企画にも出演し、“寅さん愛”を全開にしていた。

「寅さんはまるでスリランカ仏教の僧侶」

 18年には雑誌「東京人 葛飾柴又を楽しむ本」という臨時増刊の企画で、葛飾区長、元文化庁長官とともに「柴又の人情こそが『文化遺産』」と題した座談会に参加し、柴又と寅さんへの傾倒ぶりをたっぷり語っている。

 「私にとっての柴又は、寅さんの映画に描かれた柴又です。そこには優しい人々、お節介で(うわさ)話が好きで、喧嘩もするけれど、いざとなれば互いに手を差し伸べ合う人々がいます。(中略)実は、寅さんの生き方は物理的にも精神的にも小乗仏教の僧侶に似ているのです。彼らは結婚せず、家庭を持たず、財産も持たず、人から食事を与えられ、最低限の物質によってシンプルな日常を送っています」

 ダンミカさんによれば、「男はつらいよ」シリーズはスリランカで放映され大人気だった。

 「面白いことに、(スリランカの)一般社会にも寅さん的な生き方をしている人が多いのです。細かく考えない、大雑把、義理人情がある、未来についてあまり考えない、時間を守らない(笑)。(中略)スリランカの人々は『男はつらいよ』を見たとき、まるでそこに自分たちの日常や人生が繰り広げられているような共感を得たのではないでしょうか」

次女のルチさん。「日本で父の遺髪を奉納して供養したい」と考えている
次女のルチさん。「日本で父の遺髪を奉納して供養したい」と考えている

 次女ルチさん(27)は昨秋から日本に住み、英会話講師として働いている。スリランカでの葬儀には参列できなかったが、火葬の直前、母親のサロージャーさんに頼み、遺髪を取り置いてもらった。ルチさんや浮岳さんは、泉福寺境内の墓地にある永代供養墓に遺髪を納めて冥福(めいふく)を祈りたい、合わせて故人を(しの)ぶプレートも設置したい、と考えている。

 仏教国スリランカ人らしくダンミカさんは著書の後書きにこう記している。「上座部仏教では、人の生まれ変わりを信じています。おそらく私も前世では、日本人だったかもしれません。(中略)死んでまた日本人として日本に生まれてくるかもしれない、それくらい深く私は日本の事を愛しているのだと改めて気づかされました」

 遺髪を日本に運んでくる時期はまだ決まっていない。それでもいずれの日にかこの寺に奉納され、長く日本の友人たちの心に残るはずだ。

実は深い日本とスリランカの縁

 スリランカは、日本では旧国名を冠したセイロン・ティーがなじみ深い。我が国が輸入する紅茶の約半分を占める一大産地だ。一方で戦後史においても日本と極めて縁の深い国といえるだろう。

 第二次世界大戦における日本の戦後処理を話し合う51年のサンフランシスコ講和会議。セイロン(当時)代表として同会議に参加したジャヤワルデネ財務相は、アジア諸国が西洋の植民地として隷属していた時代に日本は自由であった、として、戦後も日本は自由であるべきだと語り、戦勝国による日本の分割統治に反対した。また、戦争被害を受けながら賠償金請求を放棄する旨の演説を行った。これは日本の国際社会への復帰を大きく後押しするスピーチとして知られている。

 日本スリランカ歴史文化交流財団のホームページによれば、ジャヤワルデネ氏は後にスリランカ大統領に就任するが、96年に亡くなる際、「スリランカと日本の未来を見届けたい」と遺言し、両目を献眼した。そして片方の角膜は日本に運ばれ、目の病気の患者に移植された。このようにスリランカは日本に対して長年にわたり、友好の念を持ち続けてくれた国なのだ。

次世代のダンミカさんへ

 長く内戦に疲弊したスリランカだが、09年に内戦が終結してからは経済発展を遂げた。パンデミック前には、年に一度は妻の母国を訪ねていた浮岳さんは以前に比べて現地の物価が上昇し、「国が豊かになってきたことを実感している」と話す。

 同国南部にある港湾の利用権を中国政府系企業が握ったり、大規模開発事業「コロンボ国際金融シティ」の建設を中国企業が主導したりするなど、中国の影響力は強いが、19年末に茂木外相と会談したゴダバヤ大統領は「日本やインドとバランスをとった関係を築きたい」との意向を表明した。

 日本側も南アジア・アフリカへの玄関口として、シーレーン(海上交通路)の要衝に位置することを重視し、ビジネス代表団の相互訪問など関係強化を狙っている。

 かの国の若者世代は日本に対して熱い視線を送るようになってきた。04年度の同国から日本への留学生は764人で、国別の留学生数では11位だったが、年々増加し、特に16年度の3976人から17年度の6607人へと、66%も一気に増えた時期もある。18年度には8329人まで増加し、国別では6位までアップしている。

日本の伝統・文化への関心が高かったダンミカさん(家族提供)
日本の伝統・文化への関心が高かったダンミカさん(家族提供)

 日本に留学し、日本を学んでいく若者の中に「第2のダンミカさん」はいるだろうか? 日本人と日本文化を深く理解するスリランカの若者が現れ、友好の絆を強めてほしい。同国と日本の懸け橋になりたいと願ってやまなかったダンミカさんが、それを何よりも望んでいるはずだ。

 中国の台頭でアジア・太平洋地域での日本の存在感が薄れつつあるといわれる。中国は港湾建設を進めるなどスリランカを一帯一路の要所のひとつと見ていることは間違いない。こうした中で、日本に学ぼうというスリランカの若者が増えている状況を考えれば、途上国との関係維持・強化のモデルケースとして、日本はスリランカにもっと目を向けてもいいのではないか。

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1617004 0 社会・防災 2020/11/11 11:00:00 2020/11/11 11:00:00 2020/11/11 11:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/11/20201111-OYT8I50008-T.jpg?type=thumbnail

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