危機を乗り切る「知の形」とは?
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■専門知を巡る議論は学術の世界では古くて新しい問題で、近年は科学理解の促進に役立つ対話型専門知という概念が注目されている。
■コロナ禍では感染拡大の不透明さと長期間に及ぶ行動制限のストレスから「専門知は本当に信用できるのか」との疑問が市民の間に芽生えた。
■専門知不信の源流は福島原発事故後の混乱にある。一方で同事故は、危機に際し専門知は統一されるべきかという難問を突き付け、今も未解決だ。
■AIの進化でネット集合知が新潮流になるが、ポピュリズムの懸念はある。次の危機に向けて、専門知と集合知を統合した現実対処知を育みたい。
私たちは様々な危機に見舞われる。新型コロナウイルスにオミクロン株が出現したように、事態の推移が見通せない段階で為政者が意思決定を迫られる場面も多々ある。そんな時に頼りたくなるのが専門知だ。専門知は針路を正しく示せる時もあれば、間違える時もある。頼るべき知がご都合主義に陥って一般市民に不利益が及び、支持を得られないことすら珍しくない。専門家に依存せず、皆で出し合った意見から最適解を見つける方がより的確で公益に資する、という集合知への期待もある。専門知が昔ほど尊重されない時代だが、果たして危機を乗り切るにはどのような「知の形」が一番望ましいのか。専門知に対する評価が割れる今、知を問うこと自体が大きな意味を持っている。
専門知と専門家
本稿は主に専門知(専門家の持つ知識)について論述する。知そのものは学術的意味合いだけを持ち、俗世の思惑とは無関係だが、知を活用したり、解釈したりするのが様々な感情を持つ人間である以上、専門知を問うことは専門家の姿勢を問うことと同義になる。
知を巡る議論は学術界では古くて新しい問題で、特に専門知のありように関心を持つ研究者がしばしば引用するのが、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが1930年に刊行した「大衆の反逆」だ。同書でオルテガは、専門家を野蛮と断じ、その理由について自分の専門とする分野以外では全くの無知であるのに、他の分野の専門家を認めずに聞く耳を持たないからだと指摘する。時代を超えた専門家への警告として読み継がれてきたことを考えれば、現代の知のありようにも当てはまる。
専門知のレベル分け

現実社会での専門知のありようを考える前に、学術的な意味合いで近年語られる専門知についても触れておきたい。中身は抽象的で観念的だが、知を巡る状況理解のためにここで概観する。それは、専門知とひとことで
ハリー・コリンズ英カーディフ大教授(科学社会学)の見解(注1)では、専門知は獲得している人数の多い順に<1>ユビキタス(遍在)専門知<2>スペシャリスト専門知<3>メタ専門知に分かれる(図1)。<1>~<3>の詳細は省くが、本稿筆者なりに解釈すると、<1>は社会通念・常識・公共マナー<2>は旧来的ないわゆる専門知<3>はある問題に対処するのに最適な専門家を選ぶ目利き力、となるだろうか。
科学の進歩や社会状況の改善に貢献しうる専門的知識を「貢献型専門知」という。これに対し、コリンズ分類では新しい概念として「対話型専門知」を提示した。この対話型専門知を身につけた人物を例示すれば、一部の科学ジャーナリストや社会学者たちだ。専門知の最も高い価値といえる「貢献」はできないものの、貢献型専門家と専門分野の話題に関して対等に話せるレベルの知、とみなせる。
対話型専門知があることで、専門分野が少し異なる科学者同士でも発展的・生産的な議論が可能になる。また、ジャーナリストであればある専門分野への深い理解から、より良い記事・論説を市民に届けることができるかもしれない。
専門家コミュニティーで認められる知
もう一つ、専門知は一般市民に必ずしも開かれたものではない実情があることも改めて指摘しておきたい。専門知への関心が深い待鳥聡史・京都大教授(比較政治論)によれば、専門知はその具体的成果が限られた「同業者向け」に出される傾向があるという。一般市民が気軽に読める日本語文献ではなく英語論文で成果を発表することで、「専門家による専門家向けの成果こそが専門知である」という色彩がいっそう濃厚になる。アカデミアの構成員にとって常識ともいえるこうした状況は、一般市民には特権的・排他的な印象しかない。
さらに研究成果を出すことが技術革新や知的財産の確保と密接に結びつくようになり、人件費や実験装置など研究環境の整備費が膨大になったこともあって、研究は科学者による知的営為の枠を超えて国家事業に近づいている。そこでは直接のパトロンたる政府への説明責任は意識されても、専門外の一般市民との関係は重視されない、という(注2)。結局、一般市民と専門知の距離は遠いままで、専門知について考える以前の段階にとどまっている。
とはいえ、専門知を巡る様々な状況を知ることで、緊急時における専門知・専門家のありようを私たちがより深く考えていくのにも役立つだろう。
コロナ禍の専門知、対処は万全か?

新型コロナの発生初期に公衆衛生学やウイルス学の専門家が、感染を封じ込めるために、過大な被害予測を出したり、厳しい行動制限を提唱したりしたのは、前述したオルテガの言説を援用すれば以下のように言えるのではないか。つまり、飲食店が軒並み潰れようが、失業者が街にあふれようが
一方で、専門家は専門のことしか論じられないのは、ある意味当然のことだ。不確実な状況下で総合調整を果たすのが政治家の仕事であるのは論をまたず、これは後述する。
専門知は威力も発揮したが……
コロナで長い自粛生活を強いられ、私たちは直接的な専門知批判とまでは言えないまでも、モヤモヤした気分を引きずってきた。それは専門知が十分に信頼するに足る状況ではなかったからではないか。
専門家は、感染者の状況を丹念に追跡調査して、「3密」の回避や、ソーシャルディスタンス、換気の重要性などを見出してきた。マスクは不織布製が感染拡大防止に最も有効であることも、新たに獲得したひとつの専門知だろう。
しかし全体状況で見ると、緊急事態宣言がいっこうに解除されず、行動制限を延々と求め続けたことに、科学的合理性はあったのか。専門家の言うことに国民が聞く耳を持たなくなったのはコロナならではの現象なのか。ここで私たちは、2011年に起きた東日本大震災の福島第一原発事故をどうしても思い出す。専門知へのモヤモヤした気分は、この事故の経験が原型になっていると見えるからだ。
専門家が信用できない
藤垣裕子・東京大教授(科学技術社会論)は、原発事故当時の日本政府の対応が海外でどう受け止められたか、ひとつのエピソードを紹介している。事故から約8か月後、国際科学技術社会論学会、米国科学史学会・技術史学会の合同会議が米国で開かれ、同国の研究者が作業服姿の菅直人首相と枝野幸男官房長官(いずれも事故当時)をスクリーンに映し出し、「日本政府は非系統的知識(dis-organaized knowledge)を出し続けた」と説明すると聴衆から失笑が漏れた。
藤垣教授は、日本政府になかった系統的知識とは「幅があっても偏りのない知識」だと説明する。「幅がある」とは、最悪のシナリオからそうでないものまで含めたものを指し、「偏りがない」とは、安全を強調する側にのみ偏っているものではないことを指す。一方で、日本学術会議は原発事故を振り返り、「専門家として統一見解を出すべき」という立場を取っていた。

藤垣教授によれば、政府や専門家は当時、時々刻々と状況が変化する原発事故の安全性に関する事実を一つに定めること、統一することに重きを置き、系統的な知識を発信することができなかった。
そのうえで藤垣教授は、事故当時、政府や専門家と市民との間で、何を不安と考えるかについて
この危機に際して日本気象学会は、原発事故発生から間もない同年3月18日付で理事長声明を公表した。それは、学会員が放射性物質の拡散による影響予測を個々に発表することは控えてほしいととられかねない内容だった。原発事故の行方が見通せない難しい時期ということを差し引いても、政府発表の形で見解を一本化したほうが望ましいとする声明と読み取れた。つまり、系統的知識を明らかにする努力を科学者自らが「放棄」した特異なケースと言えよう。
統一見解か幅のある見方か?
ここまでくると、この問題は一筋縄ではいかないことがよくわかる。二つの問題をはらんでおり、一つ目は、危急の事態の際、専門知は統一された見解として形にしたほうがいいのか、あるいは幅をもったまま示されるべきなのか。もう一つの問題は、専門知がそれを発信する科学者やそれを活用する政治家の政治的思惑や経済的利害、保身などを背景に、都合の悪い部分は軽く、都合のいい部分は濃厚に伝えられる可能性がある、という点だ。
最初に挙げた「統一見解」か否かについては、専門家と一般市民の間の「科学のとらえ方の違い」から見ていく必要がある。
学校教育の理科は、科学者によって発見され、追試され、教科書に載せても間違いがない事実を系統立てて勉強する。これに対し科学者の行う科学は試行錯誤のプロセスを指す。そこでは科学者が何度も失敗したり、当初考えていたのとは違う方向へ研究が向かったりと
科学は不確実で限界がある
こうした科学の限界や不確実性は専門家にとっては自明だが、吉沢剛・東大客員研究員によれば、科学者と市民の間には認識にギャップがあるという。すなわち、「科学者はわからないことを知るために研究しているが、私たち(一般市民)は研究の成果としての科学しか見ることができない」(注4)という。私たちの目にはわかったこととしてしか映らないので、科学者は全ての問いに答えを出してくれる存在だと素朴に信頼してしまう。あるいは、「難しいことはわからないので解決して下さい」と専門家に丸投げし、委ねてしまう。
哲学者の鷲田清一・元阪大学長は福島原発事故後に、「すべて学者が正解を出してくれるという、科学への過剰な信頼には危ういものがあるが、その揺り戻し、つまり学者の言うことはすべて信じられないという、科学への不信の過剰はもっと心配だ」と書いている(注5)。
原発事故のようなパニックすら引き起こしかねない危機や、新型コロナのように長期間ストレスにさらされる事態は、専門知への不満が噴出しやすい。科学には限界があり、専門知とて盤石ではない。この当たり前だが極めて重要な事柄が、今まで一般市民に明確にわかる形でコミュニケーションされてこなかった。科学界に課せられた宿題は重いが、もうひとつ、「科学にはわからないことがあり、時に間違えることもある」のを正直にさらけ出せない専門家特有の奇妙な振る舞いについても紙数を割きたい。