【インタビュー】明石康・元国連事務次長 世界の紛争解決と日本「我々の国連」に積極関与を

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POINT
■国連は1945年の発足以来存続し、戦前の国際連盟のような加盟国の脱退もなかった。大国に付与された拒否権が脱退を防ぐ安全弁として作用した面もある。

■冷戦時代の国連は、拒否権行使があっても憲章の柔軟な解釈で数々の危機を乗り切った。柔軟で自由な発想は開発や気候変動などの問題への取り組みでも有益だ。

■ミャンマー、アフガニスタンの危機は深刻。和平のための枠組み作りの機運はまだ見えないが関係国・機関の努力は続いており、手がかりが皆無ではない。

■日本はより積極的な国連平和維持活動(PKO)を行うべきだが、国連への関心の低下を示す世論調査結果は気がかり。国連が直面する課題を自分たちの問題としてとらえ直す必要がある。

聞き手 調査研究本部主任研究員 永田和男 

明石康氏
明石康氏

 日本人国際公務員の草分けとして1950年代から紛争の解決に奔走し、国際政治の現場から日本の対応を見つめてきた明石康氏。1月で91歳となったが、昨年もミャンマーの軍事クーデターを巡る研究会に加わり提言を行うなど活発な発信を続けている。国連の取り組む領域が戦争と平和の問題から持続可能な開発、気候変動など地球規模の問題まで拡大し続ける一方で日本人の国連への評価、関心が低下していると懸念する明石氏は、国連の直面する問題を自分たちのこととしてとらえ、貢献を考えることを訴えている。

コロナ後の新・観光戦略論

戦争体験と国連

――明石氏が生まれたのは満州事変(注1)が起きた年で、日本と世界が急速に戦争へと向かっていく時期だった。

 1931年生まれで、2年後の33年には日本が国際連盟を脱退した。同年にドイツも脱退して、連盟の歴史は発足後13年で事実上の終止符が打たれた。それに比べると国際連合は設立から75年を超過して、連盟の何倍もの年月をなんとか生き延びている。大成功ではないが、ともかく脱退する国もなかった。インドネシアが一度脱退しようとしたくらいで、それもすぐ戻ってきた(注2)。脱退がないのは、一つには大国の拒否権(注3)があるためだ。拒否権というのは国連にとって必要悪で、大国が国連にとどまるための安全弁となる。5大国(安全保障理事会常任理事国の米国、英国、フランス、ロシア、中国)は、本当に嫌なことがあっても拒否権を行使して安保理に残る道が残されている。拒否権がなければとうの昔にソ連も出て行っただろうし、米国も中東、イスラエルの問題で脱退したかもしれないが、拒否権行使という離脱以外の手段を持っていた。

――他に印象深い戦争の記憶は。

 秋田中学校3年の時に終戦を迎えた。勤労奉仕に駆り出されて、今は大館能代空港になっている原野を開拓するため地域の小学校に寝泊まりして働いた。非常に貧しい生活を強いられていたが、秋田中学は県外の大学に進む者も多く、生意気な学生が結構いた。この戦争は多分負けるだろうという見方で、日本が無謀な戦争に突入した愚かしさ、無謀さについて勤労奉仕の合間に話し合った。世界の現実や力関係も考えたやり方が他になかったのか、と。メディアなどの情報は乏しかった。だが兄たちが海軍に召集されて技術将校や航空兵になっていた。戦争が日本にとって不利な形になっているという感じは持っていた。

――後に国連で紛争解決に当たるが、自身の戦争の記憶が蘇るようなことはあったか。

 あまりなかった。だが戦後フルブライト留学生として渡米する機会に恵まれ、横浜から貨客船「氷川丸」で12日かけて着いたシアトルから、シカゴまで大陸横断の列車の旅が丸2日間続いた。野原を走り続けて、アメリカという国の大きさに驚き、こんな国に宣戦布告した無謀さをますます思い知った。当時の米国は、今もその頃の仲間たちと思い出話をするのだが明るかったし、のびのびしていた。アジアの敗戦国から来た我々にも非常に温かく、「この国をよく見てくれ。いいところもあるけれど悪いところもあるから」というおおらかな態度で迎え入れてくれた。

 留学中、いかにして国連は作られたかについてルーズベルト(米大統領)、チャーチル(英首相)、スターリン(ソ連首相)による45年2月のヤルタ会談に関する文献などを読むと、米国は日本に宣戦布告した段階で戦後の世界を構想し、国際連盟に代わるどのような国際機構を作るか、国務省の中に研究組織を作って検討していた。戦争を始める時にどうやって終わらせるかを考えてから始めていたのだ。

――近年の米国は、戦争を始めても明確な構想があったか疑わしい印象だ。

 行き当たりばったりでもなかったが。イラクが小国クウェートを侵略して起きた91年の湾岸戦争では、世界中がイラク大統領サダム・フセインの行動は許せないとして戦争への支持があった。それが2003年のイラク戦争では、(安保理決議もないまま)米国と英国を中心とする連合軍だけによるイラク攻撃になってしまった。

ミャンマーとアフガニスタン

――昨年は2月にミャンマーの軍事クーデター、8月にはアフガニスタンでイスラム主義勢力タリバンによる実権掌握によって民主化の流れが後退した。ミャンマーについて明石氏は研究会に加わり提言を発表している。

ミャンマー中部マンダレーで21年3月、軍事クーデターに抗議するデモの最中に警察の発砲に身を伏せる参加者たち(ロイター)
ミャンマー中部マンダレーで21年3月、軍事クーデターに抗議するデモの最中に警察の発砲に身を伏せる参加者たち(ロイター)

 研究グループ(注4)はまだ存続しているが、メンバーの大島賢三元国連大使が急逝したのは残念だった。亡くなる2週間くらい前、大島氏と一緒に笹川陽平日本財団会長(ミャンマー国民和解担当日本政府代表)を訪ねてミャンマー情勢について話した。その後、ミャンマー担当国連事務総長特使のクリスティン・バーグナー氏が来日して我々のグループと意見交換した。彼女は、自分の後任に日本人のしかるべき人を推薦したいと言っていた。自分がやってもいい、と言う人が我々の仲間でもいたが、日本政府がその気にならないと実現しない。日本政府から見て、今日本人が特使になってもミャンマー情勢は難しいということではないかと推測する。東南アジア諸国連合(ASEAN)の特使に対するミャンマー国軍の態度(注5)を見ても、これは難しいミッションだ。日本政府の見通しがそうだったとすれば、全く間違っているとは言えない。

 私自身、国連事務次長時代に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)(注6)代表のポストを、事務総長就任を控えていたブトロス・ガリ氏(エジプト副首相の後、92~96年国連事務総長)から打診されてすぐに日本の波多野敬雄国連大使に相談した。日本政府内では、やってもいいじゃないか、むしろやるべきだという意見が多かった。

――カンボジアでは91年にパリ和平協定が調印され、和平の枠組みができていた。

 3年近くかけて、数十か国と国連も加わって共同議長をフランスとインドネシアが務めたグループが一応、パリ和平協定というものを作って、その枠組みがあった。米国、中国を含む安保理常任理事国の全部と、日本やオーストラリア、インド。そういった国々が入る枠組みだった。ところが、今のミャンマー、アフガニスタンには何もない。

――その意味では、明石氏が94年から事務総長特別代表として乗り込んだ旧ユーゴスラビアの状況に近いか。

 (枠組みが)何もない、という意味ではそうかもしれない。旧ユーゴスラビアは全く内戦状態にあって、ロシアはセルビア人勢力の味方、米国はイスラム教徒から成るボスニア政府の肩を明らかに持っていた。全く平和の枠組みは存在しない、ある意味では現在のミャンマー、アフガンと比べてもより悪い状況だったとも言える。現実に(内戦を)戦っているのだから。私の親友は、「お前はカンボジア和平をともかくやり遂げたのに、旧ユーゴという誰がやっても難しい、失敗に終わる可能性が多いものをなぜ手がけたか」と言っていた。私からすれば、必ず成功することに飛び込むのはやさしいが、それでは国際公務員制度は機能しない。失敗の可能性が高くてもやってみる価値があるなら、事務総長がやってみないかと言ってきたら、尻込みせずやってみるべきではないかと思っていた。日本政府には特に相談しなかった。

 旧ユーゴについて一言言わせてもらうと、国連の手で平和は成立せずにその後米国が引き受けるということで、米デイトンでの合意に基づく和平協定が95年12月に調印された。私は11月で旧ユーゴ担当を辞めていたが、国連が手を引いて米国が主導したから平和が来るとは言えないわけで、今もボスニア・ヘルツェゴビナは大変な状況にある。国土の半分、49%は「セルビア人共和国」、51%はイスラム教徒とクロアチア人の「ボスニア連邦」の二つに分割されていて、それぞれの政府が出来ている。治安維持を担う欧州連合(EU)主導の部隊(EUFOR)が今も展開して紛争の後始末をしようとしている。

解決の手がかりを探して

――ミャンマーも、手がかりをどこかで見つけてそこから物事を動き出すようにしないといけない。

 手がかりはなかなか見つからないが、ないとは言えない。ASEANが重い腰を上げて、特使を任命した。その特使が国軍になかなか会えないのだが。

―クーデターで権力を奪取した国軍も、ASEANでは首脳会議に軍トップが招かれないなど孤立気味だし、国連でも自分たちの指名した大使が承認されないでいる。

 ASEANでミャンマー問題を協議するにしても、やはり当事者なしでは困る。そもそも国連の使命とは、国と国との関係がうまくいかない時に乗り出して(紛争を)やめさせるということだった。だが冷戦が終わって国連は吹き出してきた民族、部族、宗教といった国内問題に次から次へ対応せざるを得なくなり、それが今も続いている。ミャンマーの国連大使問題も本来、一人前の主権国家なら解決できる問題に国連が首を突っ込んでいる。

――国軍と民主派勢力の衝突は激しさを増しているが、カンボジアのような和平の枠組みを作る国際的な機運が見当たらない。

1993年6月、カンボジア総選挙を終え、UNTAC本部でその後第1首相となるラナリット殿下(左)の訪問を受ける明石氏
1993年6月、カンボジア総選挙を終え、UNTAC本部でその後第1首相となるラナリット殿下(左)の訪問を受ける明石氏

 その点カンボジアはラッキーだった。パリ和平協定の枠組みを決める際も、フランスとインドネシアという欧州とアジアの有力国が共同議長を務め、オーストラリアのギャレス・エバンス外相もアイデア豊富な人で活躍した。UNTACという大きな力を持つ国連の出先機関が作られ、その機関の長である私は、カンボジアの伝統的な君主であるノロドム・シアヌーク国王と、危機に面した時に以心伝心で通じ合える関係を結ぶことが出来た。

――ミャンマーもアフガンも、今のところカンボジアほどラッキーではない。

 色々なものが相重なって、ある温度になるとその国を良い方向に向けようとする大きな流れになる……。そのような流れをどうやって発見するか。

冷戦と米中対立

――国際社会を見渡すと今や米中対立が基調だ。米ソ冷戦時代を国連で過ごした明石氏にはどう映っているか。

戦後数々の国際的危機が討議されてきた国連総会の議場(2019年6月撮影)
戦後数々の国際的危機が討議されてきた国連総会の議場(2019年6月撮影)

 中国の代表権問題(注7)が決着した1971年秋の国連総会議場の騒然とした雰囲気を思い起こす。日本は米国と組んで、中華人民共和国の国連参加を阻止するというよりも台湾の国民政府を国連にとどめたかった。だが、中華人民共和国の中国代表権が承認されるとわかった瞬間には議場がどっとどよめいて、アフリカの国々の代表の中には飛び上がって、踊り出して喜んでいる人もいた。歴史のページが一ページ変わった。そういうことを反映するのが国連なのだと思った。

――中国によるアフリカ諸国の取り込みが、近年の巨大経済圏構想「一帯一路」よりずっと以前から続いていたことがよくわかるエピソードだ。

 冷戦時代のソ連と今の中国では、中国はむしろ国連を積極的に利用し、途上国の中でもアフリカ諸国には中国の国連参加を歓迎している面もあるのではないか。

 一方、米国と中国の間では大きな係争地点として台湾が浮上し始めたから、お互いに譲歩がしにくくなった。二つの大国というのはなかなか、双方が満足感を持つのは難しいだろう。かつての米ソがそうだったように。

――冷戦に話を戻すと、米ソの拒否権合戦で安保理は機能不全などと言われた。

 冷戦が起きたために、国連が発足当初予想したようには機能しなかった。にもかかわらず、48年のパレスチナ紛争では停戦と平和を取り付けることが出来、国連休戦監視機構が設置された。インドとパキスタンの戦争でも国連はカシミールで停戦を取り付ける。50年には朝鮮戦争で、予想外の状況だったが「国連軍」が結成されて、ともかく53年に休戦協定調印となったのも大きな成果だった。そして新興国が続々入ってきたことで、開発の問題が平和と同じくらい重要なテーマとなって今日に至っている。

――冷戦が終わると、いよいよ国連の時代だという雰囲気になったか。

 カンボジアでは、世界中の新聞が民主選挙はポル・ポト派の総攻撃でだめになるといった悲観論を書いたが、ともかく和平は成功した。90年代初めは良かったが、ソマリア内戦、ルワンダの大虐殺、それから旧ユーゴスラビア紛争。この三つでは挫折を味わった。だから2000年のブラヒミ報告(国連平和活動検討パネル報告)は、国連は本当に出来ることに集中するべきだというリアリズムを語った。頑張れば出来ることもあるが、出来ないことはさせてはいけないという報告者ラフダール・ブラヒミ氏(元アルジェリア外相)の哲学がにじみ出ている。ブラヒミ氏はその後アフガニスタンで事務総長特別代表を務めた際にも、国連はあまり大きなことをやろうとしても成功しないだろうと小規模なプレゼンスを語っていた。とつとつと話す温厚な人で、ガリ事務総長に重用されたのもわかる。

 ガリ事務総長と言えば、カンボジアで私と対立したこともあった。私が「国連放送局」を作るのを、ガリ氏は金がかかると言って反対した。しかしカンボジアの農民の多くは文字が読めないから、彼らにもわかる言葉で、漫才なども交えながらラジオで民主主義について語りかけたのは大きな成功だったと思う。

国連の特色は「自由な発想」

――国連の平和維持機能の特色とは。

 国連史をひもとくと、発足当初の段階では安保理5大国の参謀総長ないしその代理で構成する「軍事参謀委員会」が安保理の下に設置され、国連憲章第7章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動)に基づく軍事力の行使がある場合にアドバイスするとされた。冷戦時代にも時々会合を持っていたが実質休眠状態となり、世界で最も暇な委員会とやゆもされた。56年のスエズ危機(注8)ではダグ・ハマーショルド事務総長とカナダのレスター・ピアソン外相が協議して「国連緊急部隊」の設立で見事に乗り切ったわけだが、緊急部隊は国連憲章に書いてあるものではない。憲章第7章に基づく実力行使というより、国連総会が作った「国連警察軍」的なものだ。ピアソンもハマーショルドも後にノーベル平和賞を授与されたが、本来の国連の姿と違うものだったにもかかわらず平和の役に立った、ということもあるのだ。

 国連は、日本人の思っている立憲主義とは違う。憲法にあたる国連憲章をかなり自由に解釈し続けて現在に至っている。だから日本人から見るとちょっと違和感を持つところがあるが、私はそれが国連の柔軟性、弾力性であり、国連の自由な発想が今の国際社会にとっても大事な、必要なことでないかと考えている。

昨年7月、川崎市内で開かれたSDGsを考えるイベントに参加する小中学生ら
昨年7月、川崎市内で開かれたSDGsを考えるイベントに参加する小中学生ら

 日本では、そんな新しい国連にはとてもついていけないということなのか、米国のピュー研究所が行った世論調査(注9)によれば支持するという人の割合が非常に低くなっている。だが、国連が変なことをしているのでは決してない。持続可能な開発目標(SDGs)(注10)を提唱しているのも我々の世代の感覚では違和感があるが、国家だけに頼っている国連ではだめで企業とか民間活動団体(NGO)とか自治体とか、そういった主体の自由な発想を国連がバックアップしながら、主権国家が出来ないことを拾い上げていくということではないか。

――柔軟な発想は気候変動など地球規模の問題などでも求められるのではないか。

 まさにそうだ。気候変動のような問題では米中も米露も協力する余地はあるわけだし。米国はジョン・ケリー気候問題担当大統領特使(元国務長官)という大変な「持ち駒」を中国に貼り付けるようにして対話させている。あれは気候変動問題だけではない、米中の協力模索のシグナルだと思う。

日本は「何をしたいのか」を語れ

――日本の国際貢献をどのようにみているか。

 旧ユーゴスラビア担当の時、ワシントンに行って新聞社の論説委員の人たちと会って、米国は空爆ばかりでなくもっと早い段階で地上兵力をある数以上出してくれれば、と話したことがある。フランス、英国、オランダなど欧州の国々はあまり北大西洋条約機構(NATO)の空軍力を使われると自国の兵士に危険が及ぶので空爆には反対だったし、地上兵力がないと本当の意味で平和を築くことはできない。日本も、もっと国際社会で力を持とうとしたら国連平和維持活動(PKO)におっかなびっくりの形で自衛隊を申し訳程度に出すという対応では不十分だ。中国などがやっているのだが、アフリカ諸国の文民警察官がPKO活動で活躍できるよう普段から訓練を施す。日本も、そうした貢献を考えてもいいのではないか。

――日本はとかく憲法の制約が言われる。

 ドイツなども国連憲章の解釈は非常にプラグマティック(実用本位)で、字句を問題にしない。憲法自体がプラグマティックに書かれていて、日本のように憲法9条を改正する必要があるとかいった具体的問題に面することのない国も多い。

 1956年12月の国連加盟の際に重光葵外相が行った演説は、バランスの取れた、日本はこういう線で国連に貢献しますよということを言ってくれた素晴らしい演説だったと思う。あの時の国連総会の雰囲気を忘れられない。私は留学生だったが演説を現場で聞いた。あれが戦後日本の国連における出発点で、その後すぐ日本の国連外交は始まった。ハマーショルド事務総長と密接に協力しながら、当時の国連が対面した最大の危機であるレバノンの平和と安定とか、アジアではラオスの中立化にも一汗かいた。国連の専門機関のほとんど全てに理事国として立候補して当選し、安保理の非常任理事国にも当選して活躍した。国連外交の第一年目から、あれだけ活躍したのは本当に驚くべきだったが、息が続かなかった。

 世論調査で国連への支持が低いのも、メディア自体が「自分の国連」という意識が薄くなって、やや意地悪い面からすがめで見るような態度が生まれてきているのではないか。日本自身が参加し、考え、悩み、貢献するというものでないから、日本で国連を見る目が冷たいものになってきていると思う。

――今後の日本外交に望むことは。

 対話すること、語り合うこと。「俺はこういうことを考えている。だけどこういうことは出来るけど、これしか出来ない。お前の方はどうだ」というふうに率直に話し合うこと。そこから真のポジティブな外交は始まるのでないか。それをやらないと日本はますます国際社会の中で見くびられた存在になる可能性がある。

――何が出来るか、出来ないかをはっきり相手に伝えるということか。

 そう。それと、何がしたいか。私がカンボジア担当の時にワシントンに行って会った面々、上院外交委員会のジョン・マケイン(2008年に共和党大統領候補)とかジョン・ケリー(前出)は一度会って話したら忘れられないような人たちだった。構想もあるし、米国の国力もよく知っている。米国は何が出来るか、何が出来ないかをかなりはっきり述べていた。カンボジア問題では、国連がやろうとしていることを米国としてこの程度まで支える、という決意も言ってくれた。やはり外交はそういう、生き生きした対話によるものだと感じた。

注釈
(注1)日本の関東軍は1931年9月18日、満州(現中国東北部)で自ら鉄道を爆破して起こした柳条湖事件を機に満州全土を制圧し、32年に「満州国」を建国した。33年2月の国際連盟総会で日本軍の撤退を求める報告案が賛成多数で採択されると、連盟の理事会常任理事国だった日本は3月に脱退を通告した。
(注2)インドネシアは65年、国交を断絶していたマレーシアが安保理非常任理事国に選出されたのに反発して国連を脱退したが、66年に復帰した。
(注3)安保理は常任5、非常任10の15理事国で構成され、手続き事項の決定は少なくとも9か国の賛成で行えるが、実質事項に関する決定は5常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票が必要。常任理事国の反対投票は「拒否権」と呼ばれる。
(注4)メンバーは明石氏を含む国連事務総長特別代表経験者3人と元国連大使3人の計6人だったが、大島氏は昨年5月29日に急性大動脈解離で死去した。4月23日付の「ミャンマー情勢に関する提言」は、ミャンマー国軍とアウン・サン・スー・チー氏ら民主派勢力の双方に加えASEANや関係主要国とも緊密な関係を持つ日本政府が、独自の立場を生かしてイニシアチブを発揮することを求めている。
(注5)ASEANは昨年10月に特使だったブルネイのエルワン・ユソフ第2外相をミャンマーに派遣して国軍と民主派の対話仲介を試みようとしたが、民主派を政治から完全に排除したい国軍が特使とアウン・サン・スー・チー氏らの接触を拒んだため派遣は実現しなかった。
(注6)虐殺や強制労働で200万人近くを死に追いやったとされるポル・ポト政権の崩壊で内戦が終結した後、パリ和平協定で合意された和平の包括的枠組みに基づき国家行政の代行、停戦監視、武装解除、選挙実施などを担った。最大時で約2万2000人の要員が参加し、93年5月の制憲議会選挙を実施して新政権を発足させた。明石氏によるとUNTAC代表ポストの打診はガリ氏が事務総長に就任する前日の91年12月31日だった。
(注7)国連発足当初は中華民国(国民政府)が「中国」を代表していたが、49年建国の中華人民共和国(中国)は新政権の国連代表権承認と台湾に逃れた国民政府の代表権剥奪(はくだつ)を求めた。71年10月の総会で代表権は大陸中国に移った。
(注8)第2次中東戦争とも言う。56年7月にエジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したことで英国、フランス、イスラエルが軍事介入して発生した。同年11月にカナダなど10か国で構成する国連緊急部隊約6000人が派遣され、停戦や外国軍隊の撤退監視に当たった。
(注9)2020年9月発表の調査で、国連への印象を14か国で尋ねたところ日本では55%が「良くない印象」を持つと答え、19年の35%から急増した。ピュー研究所は、新型コロナウイルスの感染拡大を巡る世界保健機関(WHO)の対応への不信感が他の国より多く示されたと指摘した。21年9月発表の調査では、「良くない印象」は45%に下がったが対象の17か国・地域中2番目に多く、「好ましい印象」も41%で下から2番目だった。
(注10)2001年に策定されたミレニアム開発目標の後継として15年の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に載る16~30年の国際目標。貧困や飢餓、教育、男女の平等、生態系の保全など17項目の目標と、各目標の具体策である計169のターゲットが示されている。

プロフィル
明石 康氏( あかし・やすし
 1931年秋田県生まれ。57年国連に入り、事務次長、事務総長特別代表(カンボジア暫定統治機構、旧ユーゴスラビア担当)を歴任。97年の国連退官後はスリランカの平和構築および復旧・復興に関する日本政府代表などを務めた。96年に読売国際協力賞受賞。著書に「国際連合―軌跡と展望」など。


※この論考は調査研究本部が発行する「読売クオータリー」掲載されたものです。読売クオータリーにはほかにも関連記事や注目の論考を多数収載しています。最新号の内容やこれまでに掲載された記事・論考の一覧は こちら にまとめています。
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