開戦直前にも「消された報告書」秋丸機関とは

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■太平洋戦争開戦の約半年前、「経済謀略機関」としてひそかに設立された「陸軍秋丸機関」は、英米戦の勝算について「勝ち目なし」とする内容の報告書をまとめたが、陸軍上層部に握りつぶされ、廃棄を命じられたとされている。

■しかし、この通説は誤りで、報告書の内容は報道、公表され、作成直後には報告書も廃棄されていない。廃棄されたのは国策に反するからではなく、その後に起きた「ゾルゲ事件」への陸軍の関与を疑われないためだったとみられる。

■2019年の読売・吉野作造賞を受賞した『経済学者たちの日米開戦』で、摂南大学准教授の牧野邦昭さんは謎に包まれた秋丸機関のヴェールをめくり、その経緯を克明に明らかにしている。

丸山淳一(『今につながる日本史』2020、中央公論事業出版所収)

 金融審議会の市場ワーキング・グループがまとめた「老後には約2000万円必要」とする報告書が、波紋を呼んだ。野党などから「年金保険料をしっかり払ってきたのに、2000万円足りないとはどういうことだ」「国家的詐欺ではないか」という批判が出て、麻生太郎財務・金融相は「表現が不適切だった」ことを認めた。

国会で答弁する麻生金融相(2019年6月14日)
国会で答弁する麻生金融相(2019年6月14日)

 確かに「赤字」といった表現は少々乱暴だった。だが、「2000万円」は家計調査のデータを使って平均的な65歳夫婦の家計を試算した結果に過ぎない。試算結果を提供したのは厚生労働省で、データや試算方法に誤りはなく、同じ方法で出した試算はほかにいくらでもある。結果は意外なものではない。

 ところが麻生金融相は、「報告書を正式なものとして受け取らない」という。「年金があたかも破綻するかのような誤解を招く。国の政築スタンスとも異なる」からだという。「不適切だった」では収まらなくなって、報告書の存在そのものを消そうとしているとしか思えない。間近に迫った参院選で年金が争点になるのを防ぎたかったのだろう。

ひそかに創設された諜略機関

 不都合な報告書をなきものにした前例として知られているのが、太平洋戦争突入直前の「陸軍秋丸機関」(陸軍省戦争経済研究班)の報告書だ。英米に宣戦布告する約半年前に出されたこの報告害は、「国力を比較すれば、日本は英米と開戦しても勝ち目はない」という内容だったが、「国策に反する」という理由で軍上層部によって握りつぶされたとされている。

 だが、この通説は最近になって、どうやら事実ではないということがわかってきた。摂南大学准教授の牧野邦昭さんが詳細に当時の記録を調べ上げ、『経済学者たちの日米開戦』でそのことを明らかにしている。2019年度の読売・吉野作造賞を受賞した同書をもとに、秋丸機関の報告書を振り返ってみたい。

 「秋丸機関」は、ヨーロッパでナチス・ドイツと英仏が交戦していた昭和14年(1939年)9月に陸軍内部に設けられた「経済謀略機関」だ。第二次世界大戦に参戦すれば日本の命運をかけた総力戦になるが、日本の国力でどこまで戦えるか。関東軍参謀部付として旧満州国で産業振興にあたっていた秋丸次朗(1898~1992)が東京に呼び戻され、ひそかに研究機関を創設したためこの名がついた。

秋丸機関を率いた秋丸次朗中佐(秋丸信夫氏所蔵)
秋丸機関を率いた秋丸次朗中佐(秋丸信夫氏所蔵)

 秋丸は主要大学の統計・経済学者や、中央省庁や南満州鉄道調査部から精鋭を集め、政治、経済はもちろん、社会、文化から思想に至るまで、内外の書藉や賓料を収集・分析した。英米班、独伊班、日本班などの班に分かれて、それぞれ経済的な戦力や敵国となった場合の弱点を徹底的に研究した。

 全体のリーダーは、英米班の中心だった東京大学教授の統計学者、有沢広巳(1896~1988)が務めた。有沢はマルクス経済学者で、このころ、治安維持法違反容疑で検挙されて起訴保釈中(束大は休職中)の身だったが、「科学的で客観的な調査研究」を目指した秋丸に抜擢されている。

「勝ち目なし」に残された勝機

 分析した結果は「英米」「独逸」「日本」などに分かれて出された。最も注目された英米班の報告は昭和16年(1941年)7月にまとめられ、陸軍のヒ層部に報告されている。

 その要点は、

 ▽英国は大戦を遂行するには供給不足があるが、米国は余裕がある。両国が手を組めば十分な経済抗戦力があり、第三国にも軍需物資を供給する余力がある。

 ▽ただ、米国が最大の供給力を発揮するには、開戦から一年から一年半かかる。英国は海上輸送力に弱点があり、月に50万総トン以上の船を繋沈できれば、米国からの援助物資が届かなくなり、英国の抗戦力は急激に低下する。

 ▽ゆえに英国に対しては海上遮断を強化し、植民地に戦線を拡大するのが効果的だ 。対米戦略は対独戦に追い込んで国力を消耗させ、国内に反戦気運を高めて英国、ソ連と離反させるのがよい。

というものだった。

 秋丸はさらに口頭で「日米の国力差は20対1」と付け加えたという。国力を比較したらとても勝てず、最後の対米戦略のくだりは具体策のない「作文」に近い。英国については支援物資を送る船を大量に沈める戦略を示しているが、沈めるのはドイツの役割。そのドイツの国力については、「独逸」班の「経済抗戦力はすでに限界で、今後は次第に低下せざるを得ない。独ソ戦に短期で勝利してソ連の生産力を利用できたとしても、まだ供給不足は消えない」という分析を付け加えている。普通に読めば日本は英米戦に突入しても勝ち目はないというのが結論とわかる。

杉山元参謀総長
杉山元参謀総長

 報告会に出席した陸軍の上層部の顔ぶれははっきりしない。有沢によれば参謀総長の杉山元(1880~1945)が出席したというが、これも伝聞に過ぎない。報告会の結論は「報告の調査や推論の方法はおおむね完璧だが、結論は国策に反する」とされ、資料は謄写版(コピー)も含めてすべて焼却処分するよう命令が出されたという。有沢は戦後に何度も「報告書は焼却された」と証言しているが、不思議なことに焼却命令の記録は残っていない。

 このように不明確なところがあるにもかかわらず、これまでの通説は、「秋丸機関の報告書は『なかったこと』とされ、日本は無謀な太平洋戦争に突入した。不都合な真実を握りつぶした軍部の暴走が破滅を招いた」というものだった。

機密でも、意外でも、国策に反してもいない

 牧野さんは、報告書が指摘した日米の国力の差は周知のことで、意外なものではなく、軍の上層部は焼却を命じていないとみている。

秋丸機関英米班の集合写真。中央右から2人目が主査の有沢広巳(秋丸信夫氏所蔵)
秋丸機関英米班の集合写真。中央右から2人目が主査の有沢広巳(秋丸信夫氏所蔵)

 報告書が意外な内容でなかったことは、秋丸本人が「軍の上屈部は、今さらそんな話を聞いても仕方ない、という雰囲気でみんな居眠りしていた」と述懐していることからも明らかだ。しかも、報告曹の内容が「国策に反する」とされた後も、秋丸や有沢は数字も交えて報告書の内容を雑誌などで紹介し、新聞も「政府や軍などの分析によると」という形で報じている。

 つまり、報告書は軍事機密でも何でもなく、報告直後に焼却を命じる意味もなかった。現に報告害の「英米」「独逸」の謄写版は複数残っている。どうやらこれまでの通説は、経済「謀略」機関として創設された秋丸機関の秘密裏のイメージに引っ張られすぎていたようなのだ。

 牧野さんは、報告書が「国策に反する」とされたのは、「国力で比較すれば英米には勝てない」という点ではなく、「強いて活路を見出すなら南進だ」という部分ではないか、と見ている。報告書がまとめられた当時、陸軍内ではドイツと呼応してソ連と戦うべきとする「北進論」と、資源を確保するためにまず南方に進出すべきとする「南進論」が対立していた。陸軍の参謀本部は北進論を唱え、秋丸が所属する陸軍省、特に軍務局は南進論を主張していた。秋丸機関の「独逸」報告書は秋丸の立場上、北進論を否定し、南進論の支持をにじませた内容となっていた。

 北進論の参謀本部はだから異議を唱えたのだ、というのが牧野さんの説だが、そうだとすれば報告書が出た時には明確な「国策」はまだなかったのだから、報告会での発言は意見の表明に過ぎないことになる。現にこの数か月後、日本は早期の対ソ開戦を見送って南進路線を選択している。

焼却されたもうひとつの理由

 「報告書の焼却命令が出された」という有沢の証言もウソではなく、報告書が焼却されたのは事実のようだ。

 ただ、牧野さんは、焼却されたのは秋丸が軍の上層部に報告書をあげた昭和16年7月ではなく、ソ連のスパイ組織が日本国内で摘発されたゾルゲ事件で最初の逮捕者が出た同年9月以降だったとみる。

 マルクス経済学者だった有沢はゾルゲ事件とは無関係だったが、事件への関与を疑われて秋丸機関から追放されており、陸軍がゾルゲ事件への関与を疑われないよう秋丸機関の資料焼却を命じたことは十分にあり得る。有沢はこの間の時系列が錯綜し、「報告書が国策に反するから焼却された」と思い込んでいたというわけだ。

 結局、南進路線は米国を刺激し、英米との対立は決定的になったが、秋丸はこれも予期して「英米と戦っても勝てない」ことがわかる報告書をまとめたのではないか。北進しても英米との対立は避けられず、日本は英、米、ソと一度に開戦していた。そうなれば日本は早々に惨敗し、ソ連軍の進駐を許して北日本(ソ連)と南日本(英米)に分割されていたかもしれない。

 牧野さんは『経済学者たちの日米開戦』の中で、秋丸機関報告書の意義について「『対英米開戦』の回避に役立ったとは残念ながら言えないが、日本がより悲惨な状況になったことは間違いない『対英米ソ開戦』の回避には役に立ったのかもしれない」と記している。確かにそうだが、組織の力学に流されて「英米と戦っても勝ち目はない」ことを結論の主眼にできなかったのも事実だろう。報告書は、陸軍内では戦争は止められなかったという「組織の限界」も示している。

「報告書を受け取らない」は許されるか

 ここまで踏まえた上で、もう一度金融審の報告書について考えてみよう。報告書の主眼は年金問題ではなく、老後に備えた投資を促すことだった。「老後の暮らしは公的年金だけでは足りない」というのは意外な結論でも何でもなく、雑誌や新聞でも紹介されている。

 書きぶりが多少不適切だったとしても、受け取らないという理由にはならない。報告書を受け取らなくてもその試算結果が消えるわけではないし、国民の誤解を招いたというなら、誤解を解くために丁寧に説明するのが筋だろう。「まるで年金は破綻するかのような表現は、国の政策スタンスに反するから」受け取らないという麻生金融相の説明に違和感を持つ人は多いのではないか。

 受け取る上層部の意に添うように、というのは「組織の限界」だろうが、政府の政策スタンスにあわせた報告書にどれほどの意味があるのだろう。旧陸軍でさえ、「国策に反する」と評価した報告書を受け取り、ただちに消し去ることまではしていない。

                    ◇

余話 戦後復興に尽力した秋丸機関のメンバー

 秋丸機関は戦争を止めることができなかったが、有沢らメンバーは戦後の日本復興に大きな役割を果たすことになる。

 吉田茂(1878~1967)が首相になった終戦直後は食糧難が深刻化していたが、戦時中に政府が統計数字の隠ぺい・改ざんを重ねたため、食糧の大まかな不足量すら推計できないありさまだった。吉田は元東大教授の大内兵衛(1888~1980)に統計制度の再建を託した。大内は弟子の学者を集め、統計法の制定や担当組織の整備を椎し進めた。

 大内はマルクス経済学者で労農派の論客として知られ、戦前には投獄されたこともあったが、戦時中から日本銀行内にあった「国民資力研究所」の所長として戦後の経済政策を研究していた。大内の弟子だった有沢はこの研究にも参加していた。

 GHQの協力もあって統計再建の基本法となる統計法は昭和22年(1947年)5月1日、日本国憲法より2日早く施行された。有沢は限られた資源を特定の産業に集中投入する「傾斜生産方式」の導入も主導し、日本の復興に尽力している。金融審の報告書問題に相前後して毎月勤労統計などの統計不正が明るみに出たのは、どこか因縁めいている。

主要参考文献

牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』

宮川公男『統計学の日本史 治国経世への願い』(2017、東京大学出版会)

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1554194 0 読売・吉野作造賞 2020/10/16 19:07:00 2020/10/16 19:07:00 2020/10/16 19:07:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/10/20201016-OYT8I50078-T.jpg?type=thumbnail

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