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    「信長ルール」乗り越える

     天下統一の直前で本能寺の変によって倒れた織田信長は、比較的横の関係だった大名と家臣の武家社会を、大名を頂点とする明確な上下関係へと変えた。昨年の連載「図解 信長の城」では、城郭考古学からこの変化を追った。このシリーズでは、信長の後を継いだ東海地方出身の二人の天下人、豊臣秀吉と徳川家康の軌跡を探っていきたい。(岡本公樹)

     1582年、京都の本能寺で自刃した信長の本拠地の安土城(滋賀県近江八幡市)は、明智光秀が接収した。

     だが、中国地方で毛利家と戦っていた秀吉がいわゆる「中国大返し」で戻ってくることを知った光秀は、安土城に手をつけることなく放棄して、京都府と大阪府の堺にある山崎(京都府大山崎町)へと向かい、敗北する。

     その直後、「無主」の城となった安土城は原因不明の火災で燃えてしまったのだ。宣教師のルイス・フロイスの『日本史』では、城の上部と城下町の大部分が焼けたとあるように、天主(後の天守)跡のある上層部では、石垣の表面には炎を受けた跡、地表でも焼けた壁や瓦のかけらを今でも見ることができる。ただ、「城全体が全焼したと思われがちですが、焼けたのは天主周辺の中心部だけだったのです」と、城郭考古学者の千田嘉博さん(51)は説明する。実際、麓の大手道の両脇にある重臣の館の石垣には天主付近のような焼けた跡はない。

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     麓から上層部まで直線に伸びる大手道の両脇は、段々になっていて、それぞれに屋敷が建っていた。現在は「伝・羽柴秀吉邸」、「伝・徳川家康邸」、「伝・前田利家邸」などと呼ばれているが、「これらの伝承地の確実な根拠はありません。特に信長の重臣ではなかった家康邸や利家邸は江戸時代や戦後に想像で付けられたものなのです」と千田さんは首を振る。なるほど、家康は同盟相手の大名で、利家は本能寺の変の前年にようやく能登一国の大名になったばかりだ。

     信長は、最初に築いた小牧山城(愛知県小牧市)以来、城作りにおいて信長と家臣との間に目に見える形で大きな差をつけた。安土城の場合は、天主には金箔(きんぱく)で装飾した瓦がふんだんに使われた一方で、麓の重臣たちの館には瓦は使われていなかったことが発掘調査から浮かんでいる。

     この連載の主役の一人である秀吉は、「信長ルール」を乗り越える必要があった。それは山崎の戦いや賤(しず)ヶ岳の戦いなどの合戦よりも困難だったかもしれない。

     信長を超えるために秀吉が安土城で行ったある工事を次回見ていきたい。

     

     ◇千田嘉博さん 城郭考古学者。1963年生まれ、愛知県出身。2014年から奈良大学長。著書に「信長の城」「戦国の城を歩く」など。

     ◇富永商太さん 歴史復元画家。1973年生まれ、兵庫県出身。読売KODOMO新聞で「日本史かくれんぼ」を連載中。

     

     写真=安土城跡の中腹の曲輪(くるわ)に付けられた名称は疑問の多い名前が並んでいるのが実情(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

    2015年01月10日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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