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    毛利動かず西軍内の疑心暗鬼<家康編2>

    ◎「問い鉄砲」作り話

     関ヶ原の戦いの実像はあまり分かっていない。例えば、徳川家康が松尾山城の小早川秀秋に「裏切り」を促すために、わざと鉄砲を撃ちかけた有名な逸話「問い鉄砲」がある。

     麓から約40分歩いて到着した松尾山城跡(岐阜県関ヶ原町、標高293メートル)で、古戦場を見下ろしながら、城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学長は「どの軍勢がこちらに向かって鉄砲を撃ったか分かるはずもありません」と否定する。

     千田さんが「物語ではなく歴史資料から史実を明らかにしようとしている」と注目するのが、三重県四日市市出身の白峰旬・別府大教授(日本近世史)だ。

     白峰さんの研究によると「問い鉄砲」の話が初めて登場したのは、関ヶ原から70年余りが経過した1672年。しかも、このときは家康とは関係なく東軍の藤堂高虎が、小早川が本当に東軍かどうかを確かめるために空砲を撃ったところ、反撃もないので安心したという話だった。しかし、時代が下るにつれて、じれた家康が裏切りを促すために発砲させたという全く違う話となって広まったことが判明した。「そもそも一次史料にない上、江戸時代を通じて、家康を中心にドラマチックに改変された逸話です」と白峰さんは指摘する。

    ◎毛利隊動かず 

     西へ向かう家康軍を、石田三成が「鶴翼の陣」で完全に囲い込み迎撃したとの定説にも疑問が浮かんでいる。「関ヶ原のような大軍が大展開できる広い場所で、わざわざ敵を迎え撃つ必要があったでしょうか」と千田さんは言う。

     東軍の福島正則隊とともに、西軍の宇喜多秀家隊と戦った尾張国の小折こおり城主(愛知県江南市)の生駒利豊(当時26歳)が後に戦いの様子を生々しく記した書状では、両軍がわずか100メートルほどの至近距離で戦闘が始まり、すぐに西軍は撤退していったとしている。

     鉄砲伝来後の戦いは、その射程から両軍の間合いは200~300メートルほどとされている。関ヶ原の地形からすると、100メートルの距離まで両軍が発砲しないことはかなり不自然だ。当日は戦闘が始まる直前まで一面に霧が立ち込めて視界が約10~20メートルしかなかったとはいえ、西軍が東軍を待ちかまえていたならば、あまりにもお粗末だ。

     三成らが東軍を待ちかまえたのではなく、小早川が籠もる松尾山城を奪い返そうとしていたとすれば話は分かる。数で勝る東軍に対して、横に薄く展開するのも戦術として不可思議だが、小早川に向いていたとすれば、強力な布陣となる。

     だが、それならばどうして三成は家康が来ないと考えていたのだろうか。それは、西軍の名目上の大将である毛利秀元(大坂城にいる毛利輝元の養子)が南宮山にいたからだ。

     毛利隊が動かなかったことはよく知られているが、そこには西軍内の意思疎通の欠如と疑心暗鬼があった。(岡本公樹)

    • 石田三成たちは南宮大社周辺に布陣した毛利隊が家康を足止めしている間に松尾山城を奪取しようとしたのか(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
      石田三成たちは南宮大社周辺に布陣した毛利隊が家康を足止めしている間に松尾山城を奪取しようとしたのか(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

    2015年08月08日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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