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    現在の浜松城に残る家康期の「出世城」<家康編11>

     徳川家康はもともと三河(愛知県東部)の大名だったが、遠江とおとうみ(静岡県西部)に進出して浜松城(浜松市)を本拠とした1570年からの20年間(20年のうち最後の3年余の居城は駿河の駿府城)で、三河・遠江に加えて、武田の旧領の甲斐、駿河、信濃の計5国を支配する大大名に成長した。そのため、浜松城は「出世城」と呼ばれている。

     前回、城郭考古学の観点から、家臣の屋敷地を含めた浜松城の巨大さと重臣屋敷が散在した様子は「大名としての家康の権力が必ずしも強くなかったことを意味する」(千田嘉博・奈良大学長)という新しい家康像を紹介した。

     では、家康が長く住んだ浜松城の中心部はどんなものだったのだろうか。

     浜松城は、石垣で囲まれ北側に天守台がある区画「天守曲輪くるわ」が中心部だ。東西約56メートル、南北約68メートルでいびつな多角形をしている。なお、現在ある「天守閣」は1958年に想像で造られた模擬的なコンクリートの建物で、江戸時代には天守台のみで天守の建物がなかったと考えられている。

    ◎地形に残る輪郭 現存する石垣や天守台を築いたのは、家康でなく、家康が江戸に移った後に入城した豊臣秀吉の家臣の堀尾吉晴よしはるによるものとはっきりしている。堀尾時代には、天守が立っていたことも発掘された瓦から想定されているという。

     今見る浜松城は、自然石を積んだ石垣と天守という信長・秀吉流の城だ。そこに家康時代の痕跡はないのか。

     「天守曲輪は家康時代も中心でした」とした上で、「今の地形にも家康時代の輪郭がかなり残っているのです」と千田さんは指摘する。

     そう考えられる理由の一つは、いびつな石垣の外周だ。石垣は直線的に設計したほうが造りやすいが、浜松城には、曲輪の南西の面が屏風びょうぶのように折れ曲がる「屏風おり」となっている。これは土造りの城だったときに防御性を高めるための備えで、堀尾は家康期の土の斜面をいかしながら石垣で覆ったとみられるのだ。つまり立地プランとしては、家康時代の城がほぼそのまま残っている可能性が高い。

     家康が九男、義直のために、1609年から築城計画を始めた名古屋城の本丸(1辺約214メートルの正方形)と比べると、浜松時代の家康の権力がまだまだ小さかったことが改めてわかる。浜松において、家康が戦国の世を家臣たちとともに「出世」していったことは間違いない。ただ、天下人という突出したカリスマとなるには、同じ東海地方の駿府を経由して、江戸城という新天地が必要だった。(岡本公樹)

    • 外周が土の可能性が高い家康期の浜松城の中心部(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
      外周が土の可能性が高い家康期の浜松城の中心部(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

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    2015年10月12日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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