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    家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13> 

    • 家康の人物像を象徴する「しかみ像」は三方原の敗戦とは無関係なのか(「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を模写、絵・富永商太)
      家康の人物像を象徴する「しかみ像」は三方原の敗戦とは無関係なのか(「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を模写、絵・富永商太)

     徳川家康は、派手好きな織田信長や豊臣秀吉とは違って、地味で我慢強いという人物評が一般的だろう。

     城郭考古学が専門の千田嘉博・奈良大学長と全国の家康に関係した地を歩くうちに、本当に家康はそんな人物だったのだろうかと疑問に思うことがあった。例えば、秀吉政権の「首都」だった伏見城(京都市)城下にある御香宮ごこうのみや神社に晩年の1605年に家康が建てた本殿(重要文化財)は非常に派手な極彩色で、「これが家康の趣味なのか」と驚いた。

    ◎嫁入り道具と判明 

     我慢強い家康像として、近年、テレビドラマやマンガなどだけでなく、学術書にも取り上げられているのが、徳川美術館(名古屋市)が所蔵する「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」だ。

     1572年に武田信玄に三方原みかたがはらで大敗した家康は、絵師を呼び、あえて顔をしかめた姿を描かせて、自らへの戒めとして生涯座右にした、とされている。ところが、今年8月に同美術館で開かれた講演会で、学芸員の原史彦さんがこの常識を覆す新説を公表した。

     それは、三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではない――という衝撃的な説である。

     原さんが由緒を改めて確認したところ、この画像は、江戸時代中期の尾張徳川家9代の徳川宗睦むねちか(1733~99年)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめが1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したのだ。

     家康の画像とは伝わっていたため、従姫の死後の1805年に、尾張家が家康ゆかりの物を収める「御清御長持おきよめおんながもち」に加えられた。ただ、江戸時代にはこの画像が三方原と結びつけられてはいなかった。

    ◎神格化が背景に

     三方原の敗戦の図と初めて紹介されたのは、1935年(昭和10年)に徳川美術館が開館した翌年1月のこと。その際は、家康が自ら描かせたのではなく、尾張家初代の徳川義直よしなおが父親の苦難を忘れないように描かせたとされていた。この話を地元新聞での対談で語ったのが、美術館を創設した19代の徳川義親よしちか氏(1886~1976年)だったため、その後、三方ヶ原戦役画像として定着。72年に刊行された収蔵品図録で、義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことで、現在の「しかみ像」のイメージが固まったという。

     原さんは「義親氏は厳密な歴史性からこの逸話を持ち出したのではなく、開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのではないか。それがいつの間にか様々なメディアで流れることで定説化していった」と話す。表現方法などから、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時よくあった、仏教的な怒りの表情だろうと原さんは推測する。

     この説について、千田さんは「しかみ像は、家康が神格化されたことが背景にあり、様々な困難に耐えて耐えて最後に天下人になったという後世のイメージが投影されたものだと思われます」と評価する。果たしてこの像は誰なのか。そしていったい何を思っているのか。原さんは近く論文を発表する予定で、学術的な論争の行方が注目される。(岡本公樹)

    2015年10月24日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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