<速報> 仙谷由人・元衆院議員が死去…民主党政権で官房長官
     
    
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    旧家臣の家に受け継がれた「雄」の字<信長の次男4>

     このシリーズでは織田信雄(1558~1630年)を「のぶお」でなく、「のぶかつ」と読んでいる。信雄は何度か名前を変えているが、「信雄」の直前に一時期「信勝」と名乗ったことから「のぶかつ」と読むとするのが一般的だが、辞書によっては「おだのぶお」としているものも多い。

     どちらが正しい読み方なのか。

     東海百城を選出した本郷和人・東大史料編纂へんさん所教授(日本中世史)は「当時、名前が実際にどのように発音されたのか。これは信雄に限らず非常に難しい問題なのです」と話す。

     例えば、中国地方の戦国大名、毛利元就は「もとなり」と読んでいる。なぜ「就」の字が「なり」と読むと分かるのか。

     江戸時代中期に、長州藩に毛利重就という7代藩主がいた。徳川家斉<いえなり>が11代将軍となると、重就は「将軍と同じ読みは恐れ多い」と「重就」の字はそのままに<しげなり>から<しげたか>に読みを変えたという出来事があったからだ。

     信雄も同じ方法で謎解きができるのだろうか。信雄の子孫は、丹波(兵庫県)の柏原かいばら藩などとして幕末まで続く。ところが、歴代藩主は「信」の字を世襲するものの「雄」の字は子孫に使っていない。

     「実は三重県菰野町にそのヒントがあります」と本郷さんは言う。菰野藩主の土方家は初代藩主の父親・雄久かつひさが信雄に仕えていた。土方家では信雄からもらった「雄」の字を名前に使い、信雄が主君でなくなった江戸時代になっても、数人の例外を除き歴代「雄○」と幕末まで名乗り続けた。明治以降になれば当主の名前をどう読むかは記憶や記録にも残る。果たして、土方家では「雄」を「かつ」と読んでいたのだ。「このことを考えると信雄は『のぶかつ』と読むということでよいのではないでしょうか」と本郷さんは結論づける。

    • 富永商太・絵
      富永商太・絵

     信雄は父と同様、部下に対して残虐なイメージが根強い武将だった。これには1584年の小牧・長久手の戦いの直前、羽柴(豊臣)秀吉と通じていると疑った3人の重臣を、長島城(三重県桑名市)へ誘い出して殺害した事件がある。結果的に秀吉に下ることになる無謀な戦いに突入したとして、「この事件は信雄のイメージの上で『傷』となっていますが、ナンバー2を引き抜くのは秀吉の得意技。実際に、その後、徳川家康は岡崎城を任せていた重臣の石川数正かずまさを、島津家でも重臣の伊集院忠棟ただむねを引き抜かれています。信雄は『人たらし』秀吉の一手を未然に防いだと言えるかもしれません」と本郷さん。裏切ろうとするものには厳しくても、自分を信じてついてきた家臣には意外と慕われていたのかもしれない。(岡本公樹)

    東海百城ガイド 

    上野城/津市河芸町上野

    織田家4位信包重厚な構え

     織田信長の弟の信包のぶかね(1543~1614年)の城。本郷和人教授は織田家の序列を「信長をトップに、2位が長男・信忠、3位信雄、4位に信包、5位は三男・信孝ではないか」と話す。

     信長は伊勢侵攻の際、彼らを地元の有力武家の養子に入れて懐柔したが、信包は1568年に中伊勢の長野氏の養子として上野城へ入り、80年に津城(津市)へ移るまで本拠とした。この間、73年に浅井家が滅亡すると、嫁いでいた信長の妹・お市の方とその娘の3姉妹が信包に預けられ、ここで暮らした。

     信包は、秀吉時代に津15万石の有力大名となったが、秀吉の怒りを買い、所領を没収。その後、許されて丹波の柏原に3万6000石を与えられた。江戸時代の1650年、跡継ぎがなく柏原藩は取りつぶしになるが、約半世紀後に信雄の子孫が2万石の藩主として復活し、明治維新まで続いた。東海地方から離れたところで織田家中のバトンパスがあった。

     高台に築かれた城跡からは伊勢湾や対岸の知多半島などが見える。瓦が出土しているが、石垣のない土の城だったとみられている。公園化でかなり改変されているものの、地形や土塁を利用して約5メートルの高低差をつくるなど織田家4位にふさわしい重厚な城であることが今も実感できる。

     近鉄・豊津上野駅から徒歩15分の本城山青少年公園。駐車場あり。

    2016年10月09日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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