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    冤罪だった?幼い家康の身代金誘拐に新説

    信長の父<4>

     今回は織田信長の父・信秀と徳川家康とのかかわりを取り上げてみたい。

     家康は若い頃、今川義元の人質だったが、幼少期には信秀の人質として3年間、熱田(名古屋市)の商人に預けられていたことがある。

     三河への攻勢を強める信秀に対して、家康の父で岡崎城(愛知県岡崎市)の松平広忠は1547年(天文16年)、駿河の今川氏に援助を求め、6歳の家康(当時、竹千代)を人質として駿府城(静岡市)へ差し出すことにした。

     ところが、移送途中で、今川の配下であるはずの田原城(愛知県田原市)の戸田氏が家康を誘拐し、信秀に売ったというのだ。

     家康が晩年に駿府城にいた時の側近の日記『駿府政事録』によると、家康自身が雑談の中で「幼少の頃に戸田氏に銭500貫で尾張に売られた」と回想している。銭の現在価格への換算は諸説あるが、1貫=20万円説に従えば、身代金1億円の誘拐事件が起きていたことになる。

     ただ、今川氏に従っていたはずの戸田氏が身代金目的で誘拐するなど、不可思議な点が多い。田原城のある東三河は織田氏の尾張ではなく、今川領の遠江(静岡県)に隣接している。実際、田原城の戸田氏は今川氏の怒りを買い、滅ぼされたとされている。なぜ、それほど危険なことを金のためにしたというのか。

     この疑問を解消する新説を村岡幹生・中京大教授(日本中世史)が2015年、論文で発表した。

     村岡説は、信秀は1547年、岡崎城を攻め落とし、降伏した広忠が、人質として家康を織田氏へ差し出したというもの。誘拐自体がなかったことになる。

     村岡さんが解読し直した史料に次のような記載があった。

     「岡崎(広忠)は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」

     当時、北陸にいた尾張出身の法華宗の高僧日覚にっかくが、尾張や京都からもたらされた情報を書き留めていたもので、「弾正忠」は信長ではなく信秀、時期は47年であると読み解いた。

     この頃の三河は、西からは信秀が、東からは今川氏が勢力を広げようとする「草刈り場」となっていた。信秀は西三河の安城城(愛知県安城市)を押さえ、さらに岡崎城を狙っていた。

     村岡さんは、この年に信秀が三河攻略の大規模な侵攻作戦を行い、広忠が降伏したとみる。那古野城(名古屋市)の城主で前年に元服したばかりの信長が同じ年に吉良氏配下の大浜(同県碧南市)に初陣に出ているが、この作戦の一環だったことになる。

     降伏した父が家康を人質として織田氏へ差し出したとすれば、戸田氏も誘拐犯ではなく、信秀の作戦に呼応して蜂起し、今川氏による岡崎城救援を阻止したものの、今度は信秀の救援が間に合わずに滅ぼされたということになる。「戸田氏の誘拐はぬれぎぬ」と村岡さんは主張する。

     では、なぜ家康は戸田氏に売られたと回想したのだろうか。村岡さんは「天下人となった家康は父祖を神格化する必要があり、父親みずから息子を人質に差し出したことを恥じて、誘拐されたことにしたのかもしれない」と推測する。家康の実母が離縁された後、戸田氏の娘が広忠の後妻となっている。家康にとっては、身代金目的かはともかく、義理の母の実家による裏切りは「売られた」という思いではあったのだろう。

     家康は1549年、織田氏と今川氏の人質交換によって尾張を離れ、駿府で今川氏の人質として育つ。60年の桶狭間の戦いでは今川軍の若武者として参陣した。(岡本公樹)

    那な古ご野や城/名古屋市中区二の丸など/

     現在の名古屋城の地下に眠る中世の城。熱田台地(名古屋台地)の北西角に立地する。

     一帯は15世紀前半頃から今川氏が治め、1521年頃に、今川義元の弟・氏豊が入った。38年、織田信秀が氏豊を追放して、本拠を勝幡しょばた城(愛知県稲沢・愛西市)から移した。信秀が南へ約3・5キロの古渡ふるわたり城に移り住むと、嫡男の信長が那古野城の城主となり、54年に清須城(同県清須市)を奪取するまで本拠とした。その後、信長の叔父・織田信光や家臣の林秀貞が那古野城主を務め、82年頃に廃城となったとみられている。1609年に、徳川家康が跡地に名古屋城の築城を決めた。

     那古野城の中心部は、古絵図から、愛知県体育館などがある名古屋城二の丸跡付近にあったと考えられている。信秀や信長が住んだ中心部の建物跡や堀は見つかっていないが、三の丸跡での発掘調査では、家臣たちの館を囲んだと考えられる幅約5メートル、深さ約3メートルの堀跡が複数見つかっている。

     地下鉄名城線「市役所」駅から徒歩5分の名古屋城内。

    • 織田信秀・信長時代の那古野城を、名古屋城の位置(黒色実線)に重ねた復元イメージ図。那古野城の形状や地形については発掘調査などのデータが非常に少ないため想定部分が多い(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
      織田信秀・信長時代の那古野城を、名古屋城の位置(黒色実線)に重ねた復元イメージ図。那古野城の形状や地形については発掘調査などのデータが非常に少ないため想定部分が多い(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
    2017年04月10日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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