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暑い。

東京オリンピックが始まるはずだった7月下旬は、梅雨が長引いて結構涼しく、「今年開催できてりゃ楽だったのにね」などと思っていた。しかし、8月に入って梅雨が明けたら気温は急上昇し、このごろは連日の35度超え。結局は「今年開催してたら大変だったな……」という正反対の感想に至っている。
とにかく暑いので、のべつ幕なしに何かを飲んでいる。職場でも家でも、水やお茶のペットボトルが次々に空になっていく。
考えてみると、こういう光景は、わりと最近のものだ。昭和の昔にペットボトルはなかったし、水やお茶もボトルで売られてはいなかった。
冷蔵庫には冷えた麦茶、学校帰りにチェリオ
では、われわれは子供の頃、真夏に何を飲んでいたのだろうか、と記憶をたどってみる。
筆者が幼稚園児から小学生だったのが、1960年代後半から70年代前半。冷蔵庫には、母親がヤカンか鍋で煮出した麦茶が冷えていた。コカ・コーラなど市販の炭酸飲料も。カルピスのような、高濃度の原液を水で割るタイプの飲料も好きだった。
中学・高校時代には、外出先で飲み食いする機会も増えた。部活帰りには仲間と清涼飲料水を飲んで渇きを癒やすのが楽しみで、ガラス瓶に入ったチェリオという炭酸飲料が人気だった。当時は250ミリ・リットル入りのガラス瓶が普通だったが、チェリオだけは約300ミリ・リットルと少し多い、というのが人気の理由だった。
こういう時に立ち寄る店は、メーカー品の菓子パンや菓子、清涼飲料水などを売る個人商店で、昔は駅前や学校の周辺などによくあった。当時は「パン屋」と呼んでいた気がする(今は「パン屋」と言えば、自家製パンを売るベーカリーを思い浮かべる人の方が多そうだ)。コンビニエンスストアが増えるにつれて、この種の業態もめっきり見なくなった。
江戸末期に外国から持ち込み、衛生面で問題も
日本で清涼飲料水が商品として売られるようになったのは江戸時代の終わり頃で、来日した西洋人たちがレモネードや炭酸水を持ち込んだことに始まるとされる。幕末や明治の初めに、外国人や、彼らから製法を習った日本人が、各地で清涼飲料水を作って売り始めた。瓶の中のビー玉が炭酸の圧力で内側から栓をする仕組みのラムネ瓶も、英国から伝わったという。
明治時代の読売新聞で清涼飲料水の記事を探すと、目に付くのは衛生に関する記事だ。1900年(明治33年)6月6日付には清涼飲料水営業取締規則の概要を記した記事が載っている。

17年(大正6年)7月20日付には<清涼飲料水に注意せよ 腐敗し