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コンビニの棚にパンプキン味のスイーツが増えると、今年もハロウィーンが近いのだなと感じる。もっとも、今年はコロナ感染拡大防止のため、原宿、川崎、池袋など首都圏の大規模なハロウィーンイベントは軒並み中止、一部はオンライン開催となるようだ。
「漫画の中のアメリカの行事」だった

筆者がハロウィーンというものを知ったのは1970年代なかば、中学生になる手前の頃に読んだスヌーピーの漫画による。正式な名は「ピーナッツ」、アメリカの漫画家チャールズ・M・シュルツがビーグル犬スヌーピー、その飼い主チャーリー・ブラウンら子供たちの日常の哀歓を、約半世紀にわたって描き続けた。日本では当時、詩人の谷川俊太郎さんの翻訳でペーパーバック・サイズの単行本が刊行されていた。
新聞漫画なので年中行事がしばしば登場する。10月末にはハロウィーンをテーマにした漫画が描かれ、ライナスという少年が、なぜかハロウィーンの夜に「カボチャ大王」が降臨すると信じて待ち続ける(けれど結局来ない)という設定もあった。
当時、筆者の周辺にハロウィーンの催しはなく、あくまで漫画の中のアメリカの行事という認識だった。
1979年(昭和54年)にはジョン・カーペンター監督のホラー映画「ハロウィン」がヒットし、人気シリーズとなった。スティーブン・スピルバーグ監督の大ヒット作「E.T.」(82年公開)も、物語のクライマックスはハロウィーンの夜。映画や漫画でハロウィーンを知った人は多いかもしれない。
米軍関係者がやっていた

読売新聞の記事データベースで「ハロウィン」または「ハロウィーン」を検索してヒットする最も古い記事は1927年(昭和2年)10月18日朝刊の<若き人たちが集って多摩河畔の祈り ハロウインに小学生も招く>だ。立教大学キリスト教青年会の若者たちが調布市で修養会を開くという記事の中に<万聖節の前の三十一日のハロウイン日には調布小学校生徒を招いて童話会を開く>とある。純然たるキリスト教の宗教行事である。
その後は、大きく飛んで70年代、海外事情の紹介記事で、しばしばハロウィーンが取り上げられた。

国内行事としては、89年(平成元年)10月21日朝刊の神奈川県版に掲載された<仮装遊び「ハロウィーン 本牧に復活>に日本のハロウィーン事情が記されていて興味深い。
<本牧でも、昭和三十年代から同五十七年の接収解除までは、毎年、「横浜海浜住宅地区」で開催され、地元民と米軍人の交流の場として親しまれてきた。
地元の子供たちは、アメリカの子供たちとともに、ネコや魔女、悪魔といった思い思いの仮装をして、魔よけのカボチャを玄関にぶらさげた米軍住宅を回り、キャンディーなどのお菓子をねだって、その代わりに踊りなどのパフォーマンスを披露した>
このように米軍関係者の住宅地で、アメリカの風習としてのハロウィーンが行われた事例は、他の土地でもあったようだ。
「コスプレ」化は1990年代あたりから
80年代あたりから、各地のイベントでハロウィーンにちなんで仮装を取り入れたものが見られるようになる。東京・原宿の表参道では、今も続く子供の仮装パレードが始まった。

1995年(平成7年)11月1日朝刊気流欄に、<ハロウィンに見る商業主義>という投書が掲載されている。東京都に住む40歳のパート女性が<日本人はどうしてこんなに軽いのだろう>と嘆いている。<近年、秋になると、街ではモミジやカキの代わりにパンプキンや魔女、お化けのディスプレーを見かける。デパートのお菓子売り場にもハロウィン用のキャンデーが店頭を占領している。仮装行列をする所もあるという>。この頃にはハロウィーンの商業利用も盛んになりはじめていたようだ。夏休みとクリスマスの間の販促イベントの材料として、ちょうどよかったのかもしれない。
90年代後半には東京ディズニーランドが来場者参加のハロウィーン仮装パレードを開始。川崎市での路上コスプレパレードも始まり、今や国内有数のハロウィーンイベントに成長した。子供が仮装する行事だったハロウィーンは、この頃から大人もコスプレを楽しむものになっていく。