氷上の社交場か「殺りく場」か、スケートリンク盛衰記
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JR山手線を高田馬場駅で降り、早稲田通りを早稲田大学と反対方向に6、7分歩くと、シチズンプラザがある。通年営業のアイススケートリンクとボウリング場、カルチャースクールなどの複合施設。1971年(昭和46年)設立、ほぼ半世紀の歴史を持つ施設が、来年1月末で営業を終了する、と発表した。
東京都内に、通年営業の屋内リンクは少ない。シチズンプラザがなくなれば、23区内では明治神宮外苑アイススケート場だけになるという(昨年、東京都が江東区の東京辰巳国際水泳場をアイススケート場に改装すると発表した。が、ここは東京五輪の水球会場なので、開業はしばらく先になる)。シチズンプラザで練習しているアイスホッケーやフィギュアスケートの選手たちにとっては、代替施設を探すのが大変だろうと思う。全国でも近年、スケート場閉鎖の報に接することは多い。

「する」「楽しむ」スケートが始まったのは?
「見る競技」としてのフィギュアスケートは、2006年のトリノ五輪で荒川静香選手が日本人初の金メダルを獲得した頃から、羽生結弦選手、浅田真央選手をはじめ、男女ともに世界最高レベルのスター選手が次々に登場し、たいへんな活況が続いている。主要大会のチケットはかなりの高額だが、なかなか手に入らない。
一方、「する競技」、あるいはレジャーとしてはどうだろう。
筆者自身はアイススケートの経験はない(滑るものは全て苦手だが、唯一カーリングだけは取材で体験した)。が、小学生の頃、世の中ではアイススケートは「誰でも普通に楽しむレジャー」という位置づけだったような印象がある。

読売新聞の記事データベースでアイススケートについて検索すると、最も古いと思われるのは、1903年(明治36年)6月18日の<
1910年(明治43年)12月14日朝刊には<諏訪湖の
<
五輪では短距離走に出場したが、野球、ボート、柔道、馬術、スキーなど、あらゆるスポーツに通じた万能選手だった。記事では、欧米での冬季スポーツの楽しみ方から、ブレードの形状、滑り方のコツ、靴の選び方など、実に懇切丁寧に解説している。<頭を打ちはしまいかなどと
「滑るだけの面白さ」に魅了された

1917年(大正6年)1月24日朝刊の「よみうり婦人附録」は<滑る
<鏡のやうに張り詰めた諏訪湖の氷の上を白い息をふきながら、水虫のやうに、しゆつしゆつと
三島の解説記事から7年、諏訪湖でのスケートは首都住民の娯楽として人気を集めるようになっていたようだ。
氷が張らない東京で<滑る丈け>とはどういうことかといえば、<小さな拍車が四つ付いた靴を
<新橋烏森辺の美しい人が長い
新橋烏森は置き屋のあった地域だから、「美しい人」は芸者衆だろうか。和装洋装の女性たちがさっそうと滑る、華やかな風景が目に浮かぶ。
都心に通年型リンク完成…あの事件の舞台に
この後しばらくは、スケートの記事の舞台は諏訪湖、富士五湖、日光など近郊の寒冷地に限られる。興味深いのは26年(大正15年)6月28日夕刊の<辷り具合もよく 大氷原スケート場 国技館樺太展の呼物>という記事。国技館で開催される樺太展の目玉企画として、<二百坪の東洋一の大氷原スケート場も出来

そして32年(昭和7年)。ついに都心に通年の屋内リンクが完成した。3月3日朝刊に<東洋一 山王会館の 大スケート場>という写真付きの記事が掲載される。
<近来ウインター・スポーツの発達と異常な躍進を見せオリムピックにも初めての出場をした
この山王会館とは山王ホテルのこと。4年後の36年(昭和11年)に2・26事件で反乱軍に占拠され、司令部として使われた高級ホテルである。
33年(昭和8年)には新宿の伊勢丹に430坪の室内リンク、芝浦日出町には475坪の朝日屋内アイス・スケート場(芝浦スケート場)が完成。山王の「東洋一」の称号は、たちまち更新されていく。