完了しました
2020年も残すところ1週間。
今年はどうしたものかなあと思いつつも、年賀状の用意はしている(近年は不義理を重ね、ごく限られた枚数しか出していないけれど)。
「年始状」明治後半には定着か

新年に書面であいさつする習慣は平安時代に始まったそうだが、国民に広まったのは郵便制度が整った明治以降のことらしい。1898年(明治31年)1月13日の読売新聞朝刊に<年始状の減少>という記事がある。<本年は宮中御喪期中の
交わされる年賀状の数が増えると、さばききれない事態も起きる。03年(明治36年)12月27日朝刊には<来年の年賀状来る>という記事がある。尾張名古屋局で1月1日の消印を押したはがきが、12月24日の東京麹町局の消印で「某所」に届いたという。<何ぼ気早き江戸子も
「無意味」と廃止を提唱したのは…

19年(大正8年)12月30日朝刊には<文部省で賀状廃止>という記事がある。<年賀状交換が
25年(大正14年)12月10日朝刊には<年末年始の贈答と年賀状を出す可否>と題して、生活改善同盟会という団体(文部省の外郭団体だったらしい)が各会の名士に質問し、14人からの回答を載せている。例えば童話作家の
配達数が増えすぎて…捨てられたり遅れたり

虚礼廃止論争は戦後も続く。50年(昭和25年)12月25日夕刊に、当時の企画「紙上討論」の第58回として、<門松と年賀状をどう思うか>をテーマにした投稿が掲載された。前文にいわく、<投稿の八割強までが美しい伝統の行事として存続すべしと主張、
49年(昭和24年)からはお年玉付き年賀はがきが発売され、送られる年賀状の数が増えるとともに、郵便局の処理能力を超え、さまざまなトラブルが発生した。
59年(昭和34年)1月8日夕刊には<年賀状千通 川に捨てる>として、静岡県の郵便局で年末年始のアルバイトをした中学3年生が<元日の朝配達を

翌60年(昭和35年)2月1日朝刊には<年賀状百万通が遅配 練馬局 昨夕やっとさばき終わる>。扱った年賀状200万通のうち元日には101万通しか配達できず、完了まで1か月かかるという異常事態だが、特殊事情があったらしい。
同局では年末に労働条件の改善を求めたストライキが行われたため、<アルバイト高校生百七十人(一昨年の二倍)を雇い万全を期したつもりだったが、通常郵便物の滞貨が予想外に多く、スト解決後も本職の配達人四十四人を全部そちらに回して年賀郵便は一切がっさいアルバイトにまかせたのが“超遅配”の原因だった><いくら大車輪をかけても「スキーに行くから」などと高校生がどんどんやめ始め、十一日にはたった三人にまで減ってしまった>と、現場の混乱ぶりが目に見えるようだ。翌年も遅配に対する不満の投書が紙面をにぎわしたが、やがて郵便局側も体制を整えて、混乱は収まっていく。年賀はがきの発行数もほぼ右肩上がりに増えていった。