カラオケの陰に消えたもの、消えないもの
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この連載で前回、カラオケの歴史を振り返った。カラオケ自体の変遷がダイナミックで、周辺の出来事まで触れる余裕がなかったのだが、多くの新技術がそうであるように、カラオケの急速な発展は、それまで似た役割を果たしていたものを、結果として片隅に追いやることになった。

代表的なものがジュークボックスだ。
何十枚ものレコード盤が入っている機械で、客が硬貨を投入して好きな曲を選ぶと再生される。全国カラオケ事業者協会公式サイト「カラオケ歴史年表」の「1970年以前」の項には、マイク入力がついた歌えるジュークボックスの登場が記されており、初期のカラオケ機器はジュークボックスから派生したとも言える。
1曲10円の時代、一晩で4万円…スナックにもボウリング場にもあったジューク

ジュークボックスはアメリカで開発され、日本には戦後、進駐軍とともに入ってきた。草創期に輸入・製造・販売などを手がけていたのは、主に、現在のタイトーやセガなど、後にゲーム機メーカーとなった企業だ。週刊読売95年(平成7年)7月9日号の連載記事「戦後50年 平成ニッポンの原風景/カラオケ」で、タイトーの広報宣伝課員が同社のジューク史を語っている。
<昭和三十年ごろからジュークを輸入しはじめました。金を出してまで音楽を聴くヤツがいるのか、と言われたそうです。でも、いい店では一晩で四万円も入りました。一曲十円の時代ですよ。スナックやバーはもちろん、喫茶店、デパート、旅館、ボウリング場……ジュークはどこにでもありました。どの家庭にもステレオがあるわけでなし、ラジオも今とは全然違う。いい音で音楽を聴けるのはジュークだけだったんですよ>
<有線放送の影響もあったようですが、決定的だったのは、やはりカラオケ。「カラオケに切り替える」というお客さんが多くなってきたので、ジュークにカラオケを組み込んだ装置を造ったのが、カラオケを扱った最初です。すぐにカラオケの方が増えて、七〇年代の終わりごろに、ジュークから撤退しました>
70年代の終わり頃といえば、タイトーが78年に発売したゲーム機「スペースインベーダー」が全国のゲームセンターや喫茶店を席巻した時期だ。企業としてはジュークボックスに固執する必要もなかったことだろう。
カラオケ登場でダメージを受けたのは…

企業は別の製品に乗り換えることができるけれど、身につけた技芸を売り物にする個人には、容易ではない。カラオケの登場で最もダメージを受けたのは、「流し」の人々だった。
「流し」とは、夜の繁華街でギターやバイオリンを片手に酒場から酒場を歩き、客がリクエストした曲を歌ったり、歌う客の伴奏をしたりして収入を得る仕事だ。
78年(昭和53年)11月2日朝刊解説面<カラオケに負けちゃいない 情と知恵「流し」人生>に、カラオケ流行初期の影響が書かれている。以下は新宿の流し組合の親方の話から。
<新宿の流しが全盛だったのは、確か東京オリンピックのころ。その数二百五十人は超えていたろう。一人で三十軒ものひいきの店を持っていた。ところが、いまでは百人を割り、一人に五、六軒という減り具合。それだけ、カラオケの店が増えてきたということだ>
それでも、人によってはまだまだ稼げたようで<「書き入れ時の昨年暮れ一か月で百四、五十万円もかせいだ」とうわさされるほどの人気者もいる>とある。記事ではカラオケへの対抗策として、レパートリーの豊富さ(この時期のカラオケはまだテープ中心で曲数が限られていた)、会話力などによる生き残り策を紹介している。しかし現実にはその後、カラオケの発展と普及のスピードが、流しを圧倒していった。