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似て非なるものだった100年前の「喫茶店」と「カフェー」

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編集委員 片山一弘

 コロナ禍のさなかの数か月前、近所の喫茶店が廃業してしまった。筆者がときどき出勤前にモーニングを食べに行っていた店だ。正直なところ、料理もコーヒーもさほどうまくはなかったのだが、落ち着いた雰囲気で居心地がよかった。

コロナ禍の前から減っていた

東京・西銀座デパート地下にある有料待合室「ブリッヂ」。来店客が店内の卓上電話で話していた=1962年(昭和37年)頃
東京・西銀座デパート地下にある有料待合室「ブリッヂ」。来店客が店内の卓上電話で話していた=1962年(昭和37年)頃

 若い頃から喫茶店が好きで、大学時代のリポートや卒論は、ほとんど喫茶店かファミリーレストランで書いていた。今も、例えばこういうコラムのアイデアを考えるような時に、喫茶店に入ることは多い。筆者にとっては自宅や職場や図書館よりも集中できる環境なのだが、今はコロナ対策のため、夜は早々に閉まってしまう。その意味でもコロナには迷惑している。

 コロナ禍に襲われる前から、喫茶店は減りつつある。セルフサービスのチェーン店はあちこちにあり、そういう店が嫌いなわけではないけれど、昭和育ちの筆者がイメージする「喫茶店」とは、ちょっと違う。薄暗い店内にコーヒーの香りがたちこめ、店のスタッフが席に案内してくれて、注文した飲み物を運んでくれる、昔ながらの喫茶店。テレビの情報番組や女性誌が「ヘルシーでおいしいカフェごはん」を特集するような「カフェ」とも、また違う。

芸術家や文化人の社交場に

大にぎわいのカフェー。人々は深刻な不況と将来への不安を抱え、うさを晴らしに来たのかもしれない=1930年(昭和5年)頃
大にぎわいのカフェー。人々は深刻な不況と将来への不安を抱え、うさを晴らしに来たのかもしれない=1930年(昭和5年)頃

 100年前の東京でも、「喫茶店」と「カフェー」は違うものだった。別の意味で。

 1888年(明治21年)4月15日の読売新聞朝刊2面に<可否茶館>と題した短い記事がある。

 <西洋の珈琲茶館(コフヒーハウス)に倣ひ今度上野西黒門町警察署の南隣りに可否茶館と()ふを新設し一昨十三日午後二時より開館式を挙行されたり>

 この店が日本の喫茶店の先駆けのようで、上野の跡地に残る記念碑には「日本最初の喫茶店」と誇らしげに記されている。記念碑によると、当時の建物は200坪の敷地に5間と8間の2階建ての木造洋館。1階はトランプやビリヤード、書籍・雑誌などが楽しめるスペースで、2階が喫茶室だったという。翌89年(明治22年)5月24日朝刊には国政医学会の告知、10月5日朝刊には理財協会の討論会の様子が報じられており、その種の集会が開けるような施設でもあったようだ。

 以後、銀座を中心に東京には数々の喫茶店が開業した。1911年(明治44年)12月13日朝刊3面には<新しき珈琲の(にほ)ひ>という記事がある。<世界本場の珈琲を飲ませるといふ京橋区南鍋町のカフェー、パウリスターは(いよい)よ十二日から開業した><卓子(てーぶる)(ことごと)く大理石で快い、卵白色の(とう)椅子に腰を(おろ)すと藍と白で縁取つた焦茶天鵞絨(こげちゃびろうど)の服を着たボーイがメニユーを持つて来る>と、店内の様子が紹介されている。カフェーパウリスタは、ブラジルに移住した水野龍氏が、本場のコーヒーを日本に広めるため、サンパウロ州政府から無償で豆の提供を受けて始めた店で、菊池寛や芥川龍之介ら文学者にも愛された。同じ銀座のカフェープランタンなど、喫茶店は芸術家や文化人が集まる社交場になっていた。

 1923年(大正12年)の関東大震災でカフェーパウリスタの建物は失われた(70年に銀座で再オープンし、現在も営業中)ものの、復興後の東京には喫茶店やカフェーが急増した。25年(大正14年)の記事によると、東京都にはカフェー2909軒があり、働くウェートレスは1万3000人に上った。

客の目当ては「女給」さんだった

カフェーを3分類した連載記事=1925年(大正14年)11月14日朝刊
カフェーを3分類した連載記事=1925年(大正14年)11月14日朝刊

 ただし、このカフェーの多くは、「喫茶店」とはかなり違う。同じ25年に20回にわたって朝刊に連載された「カフエー漫話」という連載の第3回(11月14日掲載)では、カフェーを3種類に分類している。第一は、当時「女給」と呼ばれた女性従業員を目当てに客が訪れる店で、<その()めに店の方ではなるべく美しいのを出来るだけ置く>とある。第二は<酒をのんで天下泰平の(くだ)をまかふと云ふ目的で客の来る店>という。<第三のはプロムナードの軽い(つかれ)を休めようとする人達>などがコーヒーを飲む店で、これが我々が知る喫茶店である。

 この時代、急増した「カフエー」の多くは、ここでいう第一、第二の、酒を提供する店だった。特に第一のタイプは今のナイトクラブやスナックに近い。永井荷風が31年(昭和6年)に発表した小説「つゆのあとさき」の主人公はカフェーの女給で、店に訪れる小説家らの客たちと奔放に交際したり、新聞にゴシップ記事を書かれたりするのだが、この「カフエー漫話」にも、さまざまな店や女給のゴシップが実名で書かれている。カフェーを舞台に、男女間の愛憎に端を発するトラブルも増え、過剰な接待ぶりも含めて、警察の規制・取り締まりは厳しくなっていった。

 このように、酒を提供したり女給が接待したりするカフェーは行政から「特殊飲食店」と分類され、それらと区別する意味で「純喫茶」という呼称が生まれたようだ。

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2003942 0 ちょっと前はどうだっけ? 2021/04/23 10:00:00 2021/04/23 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/04/20210421-OYT8I50068-T.jpg?type=thumbnail

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