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「銀座のネオン」が消えるとき

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編集委員 片山一弘

 目下10都道府県に出されている緊急事態宣言が、沖縄以外は6月20日限りで解除されることになった。ここ数週で感染者数は漸減してはいるものの安全圏内とも言えず、東京などではまん延防止等重点措置に切り替えられるという。

夜の街に輝くのはネオンばかりではないが

商店街に作られたネオンサインの中を歩く買い物客たち(大阪市で)=1952年(昭和27年)7月7日
商店街に作られたネオンサインの中を歩く買い物客たち(大阪市で)=1952年(昭和27年)7月7日

 コロナ禍の下、小池都知事が繁華街に消灯を求めたことで、都心部の夜の暗さがしばしば話題に上ってきた。今はどうかと21時過ぎの銀座を見に行った。平時よりは暗いが真っ暗でもない。自粛要請に応じてネオンサインを消したビルもあれば、点灯しているビルもある。続いて渋谷、新宿とJR山手線の車内から眺めてみたら、いずれも似たようなものだった。

 ネオンサインという言葉、口にも耳にもなじみ深いが、正確な意味をご存じだろうか。改めて調べると「ネオン」はネオン管、サインは標識や看板のこと。ガラス管の中にネオンガスを封じ込めて放電することで発光させるのがネオン管だ(実際にはアルゴンなど他のガスも用いている)。

 厳密に言えば夜の街に輝いているのはネオンサインばかりではないのだが、我々は「夜に光る屋外広告物」を総称して「ネオン」と呼びがち。それほどまでに定着した言葉でもある。

 時流の中で、電力消費の少ないLEDや、表現力豊かなデジタルサイネージにとってかわられつつもあるにせよ、ネオンサインの光の味わいは今も人々をひきつける。

「銀座」を象徴する存在に

90年前の浅草、銀座を彩るネオンサインを紹介する記事=1931年(昭和6年)6月3日朝刊
90年前の浅草、銀座を彩るネオンサインを紹介する記事=1931年(昭和6年)6月3日朝刊

 読売新聞の1911年(明治44年)9月27日朝刊<新知識>と題したコーナーに「ネオン管」についての記事がある。<チャーレス、ギラウム氏が仏国の天文学会で講演をした>として、ネオン管の原理を説き、< 其和(そのやわらか) き黄金色の光は、大層心地よいと説明された>などと報じている。実用化以前のことで、かなり早い。

 ネオンサインが実際に日本に入ってきたのは、もう少し後。日本サイン協会の 公式サイト には1926年(大正15年)に<日本で初めて国産ネオンが東京の日比谷公園で公開点灯された>とある。一方、銀座の老舗かばん店「銀座タニザワ」の 公式サイト内の年表 には、1918年(大正7年)に、ネオンサインを日本で最初に設置したとあるから、こちらは輸入品だろうか。やがてネオンサインは銀座に広まり、この街を象徴する要素のひとつとなっていく。

「歓楽街」の別名でもある

雨にぬれた東京・新宿歌舞伎町ネオン街=1975年(昭和50年)1月16日
雨にぬれた東京・新宿歌舞伎町ネオン街=1975年(昭和50年)1月16日

 一口に「銀座のネオン」と言っても、2種類の意味がある。ひとつはビルの壁面や屋上に設置された大型のネオン群で、銀座の空を彩る夜景そのものだ。

 もうひとつは、いわゆる「ネオン街」、酒場を中心とした歓楽街のこと。実際には今の銀座の酒場の多くはビルの中にあり、路上から見えるのは袖看板ばかりで、ネオンサインが目立つ路地はさほど多くないのだが、「ネオン街」という言葉は今も生きている。

 30年(昭和5年)12月15日夕刊「子供のページ」に、<夜空に描く ネオン・ランプの光>との記事がある。ネオン管が光る仕組みを子供向けに解説した記事だが、冒頭には<夜銀座などを歩いてゐますと、赤や、紫の美しい光りの文字で広告が 沢山(たくさん) 出てゐます。あれは近頃できた広告灯で「ネオン・ランプ」といつてゐます>との説明があり、この時期にはすでに銀座が、一つ目の意味でネオン輝く街であったことがうかがえる。

 そして、歓楽街の象徴としての「ネオン」も、ほどなく紙面に現れる。34年(昭和9年)7月19日夕刊2面の<ネオン罪あり 銀ブラから急に悪に返り咲く>は、下宿先の家財道具を勝手に売り飛ばした男についての記事。この男、かつて空き巣犯で検挙された後、改心して仕事を探していたが、下宿先の大家の女性が<郷里の福島に旅行したのでこれを東京駅に見送つた帰途銀座通りを漫歩して華やかネオンの光りをみて真面目な生活が 馬鹿(ばか) らしくなり>犯行に及んだのだという。これを「罪」と言われては銀座もたまったものではない。

 35年(昭和10年)11月には「ネオンサインで男を () れば?」と題した短期連載が載っている。カフェーなど夜の酒場で働く女性たちが、その仕事や生活を通して知った男性心理を語るという趣向で、「ネオンサイン」はまさに「夜の街」を象徴する記号として用いられている。

「東京のネオンのジャングルは面白くて、元気で、モダンだ」

東京・銀座は3月下旬並みの暖かさ。繁華街のネオンをとらえた写真が「ネオンうるむ“春の宵”」という見出しで紙面を飾った。右上が森永製菓の“地球儀”=1956年(昭和31年)2月15日朝刊
東京・銀座は3月下旬並みの暖かさ。繁華街のネオンをとらえた写真が「ネオンうるむ“春の宵”」という見出しで紙面を飾った。右上が森永製菓の“地球儀”=1956年(昭和31年)2月15日朝刊

 やがて戦争のため、銀座をはじめ各地のネオンは明かりを消されていくが、戦争が終わると復活。電力不足でたびたび規制を受けながらも、銀座の夜は光り輝いていく。53年(昭和28年)4月10日朝刊社会面に<またたく“地上最大のネオン”>という記事がある。<銀座四丁目の地上五十メートル不二越ビル九階屋上に建設中だった地球儀型ネオンに九日夜写真のようにパッと灯がともった>。記事では<某製菓会社>としているが、森永製菓の広告塔。83年(昭和58年)に取り壊されて今はないが、 同社の公式サイト に輝かしく紹介されている。

 前回の東京五輪のエンブレムやポスターを制作したことでも知られるグラフィック・デザイナーの亀倉雄策氏が、1959年(昭和34年)7月4日夕刊文化面に<ネオンの都>と題した文章を寄せている。ロシア出身の彫刻家ザッキンが<東京のネオンのジャングルは面白くて、元気で、モダンだといっている>という話から、<欧米の一流の芸術家や評論家が証言しているのだから、よもや単なる外交辞令でもないと思う>と東京のネオンを論じている。

 亀倉氏によると、欧米の都市ではビルの高さが一定にそろっているため、ネオンはビルの側面の壁を利用して作られるが、日本ではビルの高さがまちまちで<のこぎりの歯のよう>なので、屋上にネオンの塔を建てることができ、<立体的な効果をドラマチックに計算してデザインされる。もっと面白いことは空にのびて行く感じが出せるのである>という。

 ただし、<せっかく立地条件のよい、空がカラッと空いているビルの上に美しいネオンを作っても、半年もたたぬうちにその前にビルが新築され、そして原色の強烈なネオン塔が立ちふさいでしまう>とビルとネオンの乱立を嘆いている。都市計画の不在が東京に独特の美を出現させ、やがてそれを 混沌(こんとん) の渦に消し去る、ということのようだ。

暗い銀座は不穏に見えた

東日本大震災直後には計画停電が行われた。節電のためネオンが消え、人もまばらな新宿駅東口=2011年(平成23年)3月16日朝刊
東日本大震災直後には計画停電が行われた。節電のためネオンが消え、人もまばらな新宿駅東口=2011年(平成23年)3月16日朝刊

 筆者には、「銀座のネオン」といえば思い浮かぶ景色が二つある。

 一つ目は入社1年目のこと。千葉県生まれで東京の大学に通ったものの、学生時代は銀座に縁のないまま卒業し、入社してすぐに甲府市の支局に赴任した。半年後に研修のため上京し、終了後に同期生たちと銀座に繰り出した。数寄屋橋の交差点から見た夜空を彩るネオンはまぶしく、都会は華やかだなあ、と思ったのを覚えている。バブル経済さなかの87年(昭和62年)のことだった。

 二つ目は10年前の2011年(平成23年)。いま筆者がこのコラムを書いている読売新聞の東京本社は大手町だが、以前、社屋建て替えのため2年半ほど東銀座のビルに会社ごと間借りした。その間に起きたのが東日本大震災。原子力発電所が運転を停止して電力不足が懸念され、銀座のネオンも消えた。仕事の帰り道に歩いた、いつになく暗い銀座は、ひどく不穏なものに見えた。先の見えない当時の心境も、そこには映っていたのだろう。

 このように、銀座をはじめとする繁華街のネオンが消えたことが、何度かある。

 代表的なのが70年代前半のオイルショックだ。73年(昭和48年)11月16日朝刊経済面に<ネオン続々消える>との記事がある。<石油対策の一環で節電のため広告ネオンも点灯縮小が決まるが、ネオンの派手な電器、自動車、繊維メーカーや百貨店などは今月上旬から消灯、短縮に踏み切っている。この結果、東京・銀座を筆頭に、夜の日本列島は暗ヤミ列島になりつつある>

「節約」のあおりを受けた職人たち

ネオンサインはガラス管をバーナーで曲げて作る。ネオンアーティストの安彦哲男さんはその手法でアートを制作(京都市で)=2021年(令和3年)6月17日朝刊京都版
ネオンサインはガラス管をバーナーで曲げて作る。ネオンアーティストの安彦哲男さんはその手法でアートを制作(京都市で)=2021年(令和3年)6月17日朝刊京都版

 電力は節約できたかもしれないが、割を食ったのがネオン業者だ。74年(昭和49年)4月6日朝刊気流面に<ネオン業者に仕事 (くだ) さい 製造中止で困窮する生活>という読者投稿が掲載されている。送り主は川崎市の主婦(33)。ネオン管製造業者の妻で、その4日前に掲載された<“あだ花”ネオン点灯必要ない 昼の銀座の方が粋で健康なのだ>という投書を読んでの意見という。

 <ネオン使用禁止で、昨年十二月からことし三月まで仕事は皆無に等しい状態です><これも国の節電のためと協力しているのですが、ネオン業界に働く従業員は全国で約二万五千人います。その家族を含めると約十万人が、いま生活に困っているのです>

 <ウチの主人のようにネオン管職人にとっては、本当に大きな痛手です。考え込んでいる主人をみると胸が痛みます。最近ではすっかり自信をなくし、転業すら真剣に考えているようです>

 輝くのはガスだが、その入れ物はガラス管。目に鮮やかなネオンサインの文字や模様は、手作業でガラス管を曲げて作り上げた職人技の産物で、それは今も変わらない。培った技術そのものを否定された投稿者の夫の失意は、察するに余りある。

 ネオン業者の打撃については、同年8月30日朝刊社会面<「ケチケチ令」1日解除 だが“夜長の秋”はまだ……>にも詳しい。<全世界を襲った石油ショックに、政府が大あわてで国民にエネルギー節約の協力を呼びかけた「緊急事態宣言」の来月一日からの解除が、きょうの閣議で正式に決まる>という内容だ。

 <これまでの規制で最も大きな痛手を受けたのが中小業者の多いネオン業者。業者の集まりである全日本ネオン協会(山口長政会長、加盟三百六十社)では「前年に比べ仕事は半分に減り、倒産する会社や自殺者も出た。社長が個人財産をつぎ込んだり、政府からの特別融資でどうやらここまで食いつないできた」と今度の緩和措置にホッと一息。>

 これらの記事に、現在の新型コロナウイルスによる飲食業などの窮状を連想する人も多いことだろう。社会全体の危機に対処する政策の陰で犠牲になる人たちを、どう助けるべきか。政府は、そして我々は、同じことを繰り返していてはいけない。

輝きは世の繁栄の証し

昭和天皇の崩御でネオンが消え、薄暗い新宿駅東口。昭和を振り返る映像が流れていた=1989年(昭和64年)1月7日
昭和天皇の崩御でネオンが消え、薄暗い新宿駅東口。昭和を振り返る映像が流れていた=1989年(昭和64年)1月7日

 これ以外にも銀座のネオンはしばしば消されてきた。

 戦後の復興期には電力不足のため、たびたび制限を受けた。

 昭和天皇が崩御した1989年1月7日の夜も、銀座や新宿でビルのネオンが消え、歓楽街が静まった。

 戦争、震災、そして目下のパンデミック。銀座のネオンは、社会全体が危機に直面した時に消されてきた。裏を返せば、銀座のネオンが輝いていられるのは、世の中が平和で繁栄している時だ。緊急事態宣言が解除されたらすぐ元通り、というわけにもいかないだろうけれど、その意味でも、再びネオンサインが都会の夜空を彩り、酒場のショーウィンドーで輝く日が来てほしい。

プロフィル
片山 一弘( かたやま・かずひろ
 編集委員。1987年入社。甲府支局、浦和(現さいたま)支局、図書編集部、週刊読売編集部、文化部(日曜版、放送担当、芸能担当デスク)などを経て、2015年から「よみうり時事川柳」選者を務める。

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2133583 0 ちょっと前はどうだっけ? 2021/06/18 10:00:00 2021/06/18 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210616-OYT8I50064-T.jpg?type=thumbnail

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