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絶頂期にこそ低迷の要因があった映画館

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編集委員 片山一弘

 しばらく映画館に行っていない。

 近年、筆者が映画館に足を運ぶのは、平日に仕事が終わり食事も済ませた後、都心部のシネマ・コンプレックスの21時過ぎからの回、というパターンが多かった。昨年来の新型コロナウイルス禍で、営業時間短縮により、その時間帯の上映がなくなっている。コロナ禍はさまざまな業種に大きなダメージを与えてきたが、映画館にとっても深刻だ。

戦争が終わり、人々は娯楽を求めた。映画館などが並ぶ浅草六区のにぎわいぶりを、当時の記事は「蟻(あり)のはい出す隙もない」と伝えている=1945年(昭和20年)11月12日朝刊
戦争が終わり、人々は娯楽を求めた。映画館などが並ぶ浅草六区のにぎわいぶりを、当時の記事は「蟻(あり)のはい出す隙もない」と伝えている=1945年(昭和20年)11月12日朝刊

 動画配信サービスを利用する機会も増えたものの、新作映画は映画館で見たい。これは筆者ら中高年の郷愁ばかりでもないはずで、大きなスクリーン、よい音響、ゆったり座れる椅子で、暗闇の中、作品世界に没頭できる映画館の魅力は、世代を超えたものではないかと思う。

118年前、日本初の常設映画館ができた

 米仏などで開発された映画という新技術が日本に紹介されたのは、19世紀の終わりごろ。読売新聞には1897年(明治30年)3月3日朝刊に<活動写真>と題した記事があり、ロシア皇帝の 戴冠(たいかん) 式、ナイアガラの滝などを収めた記録フィルムの上映会が、今でいう多目的ホールの神田錦輝館で開かれることを報じている。このように芝居小屋や寄席などでの上映会で、活動写真は人気を博していった。

大衆娯楽の殿堂だった浅草の映画館「電気館」=1976年(昭和51年)2月29日
大衆娯楽の殿堂だった浅草の映画館「電気館」=1976年(昭和51年)2月29日

 1903年(明治36年)10月2日朝刊には<浅草公園の活動写真>という短い記事がある。<毎日昼三回夜二回づつ 浮出(うきだし) 着色活動大写真を興行し一週間 (ごと) に新奇なる写真と 取換(とりか) へる由>。これが日本で最初の常設映画館となった電気館の始まり。東京・両国にある江戸東京博物館の 常設展 の、大正期の浅草の様子を伝えるコーナーで、電気館の模型を見ることができる。

 浅草は23年(大正12年)の関東大震災で大きな被害に遭うが、26年(大正15年)12月12日朝刊には<東洋一の映画館として 電気館新築成る>という記事が。電気館が<復興の (さきがけ) >として、半年の工事の末、鉄筋コンクリート3階建て、定員約3000人の大規模劇場として完成間近であることを伝えている。

 翌27年(昭和2年)4月から5月にかけて、夕刊に<映画館めぐり>という記事が連載された。浅草をはじめ銀座、新宿など東京の映画館二十数館を紹介したもので、4月18日掲載の第1回は、もちろん「浅草電気館」だ。

 < 入口(いりぐち) の天井の電灯の周囲からは幾筋もの銀モールが垂れて () の先を絞った所に 真赤(まっか)薔薇(バラ) の花が静かに微笑し大理石の柱は白い肌を夜気にさらしてゐる>と、詩的な文体で建物が描写される。一方、<バンドの人数は三十人程もあらうか。和洋合奏で 三絃(さんげん)(ばち) が白く動く>とは、今の映画館では見ない光景だ。無声映画への伴奏、そして上映の合間に演奏するため、楽団が常駐するのが当時の映画館の常だった。

「活弁」が活躍する無声映画からトーキーへ

 もうひとつ映画館に欠かせなかったのが、無声映画で俳優のセリフやナレーションを一手に語る「活弁」、活動弁士である。この連載では「説明」という表現で一貫していて、例えば4月25日掲載の新宿武蔵野館の回では<説明は徳川夢声に山野一郎、声色混じりの説明を原色絵のあくどさに (たと) へるなら () れは近代美術の清新さである。夢声は重く山野は軽くそれぞれに特色を持つて欧米映画には無くてはならぬ人々だ>と紹介されている。

 実は、31年(昭和6年)9月にも朝刊演芸面で、再び<映画館めぐり>(初回のみ<常設館めぐり>)が連載されている。前回から4年半しかたっていないのだが、この間に、映画界には革命的な変化があった。「トーキー」と呼ばれた、音の出る映画の出現だ。

日本もトーキー映画が主流になっていくことを論じる記事=1931年(昭和6年)9月1日朝刊
日本もトーキー映画が主流になっていくことを論じる記事=1931年(昭和6年)9月1日朝刊

 連載開始直前の9月1日朝刊演芸面に<日本にはいつ来る 発声映画時代>との記事がある。アメリカ製のトーキー映画が日本で初めて上映されたのが29年(昭和4年)。31年夏には初の国産トーキー映画「マダムと女房」が公開された。記事は、アメリカをはじめ欧州諸国で発声映画が主流になり、日本の映画館でも対応が進む状況を記した後、<声を持つ映画は、声の商売をする人を洗ひざらひ () き集めてしまふ>と、ハリウッド映画が舞台俳優や歌手などの人材を高報酬で集めたために演劇界が圧倒された様子を紹介。会話が下手な俳優が職を失う一方で、音楽家や落語家が映画に進出するのでは、と考察し、<あらゆる種類の娯楽物の世界を恐ろしい勢ひで侵してゆくものと予想されてる>と書いている。

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2171391 0 ちょっと前はどうだっけ? 2021/07/02 10:00:00 2021/07/02 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210630-OYT8I50092-T.jpg?type=thumbnail

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