デスクの目~ゴーン事件と除夜の鐘
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私の仕事の一つに「USO放送」選びがある。
読売新聞朝刊のテレビ欄をめくると右ページの片隅に4センチ四方のその欄は見つかる。そこからまた2、3ページめくった地域版の隅っこにも。
USO放送は、読者に世相を風刺していただくユーモラスな3行投稿欄。誰かが誰かに殺されたりだまされたりと、殺伐としたニュース記事であふれがちな紙面に涼やかな風を通してくれる、大切な小窓である。
社会部デスクは東京の地域版の選者を日替わりで担当する。例えば、私は2018年12月30日の朝刊に次の作品を選んだ。
連日ゴーン、ゴーン
今年は必要ないな
-除夜の鐘
(ナナハン)
日産自動車のカルロス・ゴーン前会長が逮捕された11月19日から1か月余り、新聞は膨大なスペースを割いて事件のことを報道していた。
経済界のスーパースターが毎年10億円に上る報酬をこっそり隠していたのかも? 金銭感覚のすっ飛んだ疑惑を報じる記事を読者は目にし続けた。中には、冬のボーナスと我が身に思いを巡らせてげんなりした方がいたかもしれない。
忘年会シーズンだし、大量のニュースに少々胃もたれ気味の人もいるんじゃないですか。ナナハンさんの作品に私はそんな皮肉を感じた。同じ視点の投稿は何十と寄せられた。
そして、ゴーン事件の除夜の鐘は年が明けても突き切っていない。心苦しいが、前回のコラム「女神がみつめるゴーン事件」に続き、本稿もまた一つ鐘の音を重ねることになる。
フランスの自動車大手ルノーは1月24日、前会長がルノーの会長職を退任することを決めた。経営トップの勾留が長引くと会社に支障が出るという。
前会長が逮捕されてからの80日間を前半と後半に分けてみる。3回の逮捕があった2018年を前半とすると、後半のヤマ場は1月8日の勾留理由開示の法廷だろう。拘置所暮らしで頬のこけた前会長が東京地裁に出廷し、「私は不当に勾留されています」と身の潔白を訴えた。
こういってはなんだが、逮捕された人に勾留理由開示は不人気だ。2017年の利用率は0.5%に満たない。なぜか。その名のとおり、勾留を認めた裁判官が、その理由を説明するための舞台だからである。逮捕された人からクレームをつけられて、裁判官が「ですよね。やっぱり勾留はよくないですよ」といって釈放することは、ない。一刻も早く釈放されたい人にとっては、申し立てるメリットが見いだしづらいのだ。
この日も、裁判官は前会長が逃げたり証拠を処分したりする恐れがあると説明した。実にあっさりしたものだった。
では、前会長はなぜ法廷に立ったのか。

法廷の後、前会長の弁護人を務める大鶴基成氏は記者会見で語った。「勾留するのに十分な嫌疑があるのかどうかを裁判所に訴えようと思った」。前会長は犯罪を起こしていない。だから本当は勾留しちゃいけない。何日かたったら保釈を申し立てるから、その時はよーく考えてくださいね。つまり、裁判官にクギを刺す狙いだったというわけだ。
ただ、大鶴氏は元特捜部長である。捜査を指揮した2006年のライブドア事件では、堀江貴文氏を拘置所に94日間とどめおいた“勾留のプロ”でもある。法廷に出ようが出まいが、前会長が保釈される確率は極めて低い。誰よりわかっていたはずだ。
前会長は、法廷に立つことを自ら望んだという。
逮捕され、日産の会長を解任された後も前会長はルノーの会長であり続けた。ルノーの筆頭株主のフランス政府が会長職を解くことに慎重だったから。ところが、マクロン政権が燃料税の引き上げを表明して民衆のデモが相次ぎ、前会長が税率の低いオランダに居住地を移していたことに批判も高まった。検察に
前会長が法廷で読み上げた文書には「日産への貢献」という項がある。「私は人生の20年間を日産の復活とアライアンス(提携関係)の構築にささげてきました」に始まる。
「1999年に2兆円の負債を抱えていたところから、2006年末には1.8兆円の現預金を有するまでに至りました」「電気自動車の市場を大きく開拓し、自動運転開発をスタートさせ、三菱自動車を(日産とルノーの)アライアンスへ招き入れました。このアライアンスは、2017年には世界第1位の自動車グループとなり、年間1千万台以上を生産しています」などなど。自身の20年間の業績がつづられている。
すごい経営手腕だったことはよくわかる。ただ、これらが裁判官に向けられたメッセージだったとは思えない。裁判官がフェアレディZやGT-Rを復活させた功績を重くみて前会長の保釈を決断するはずもない。

前会長は経営手腕を誰にアピールしたかったのだろう。その発言内容は世界にニュース配信された。アメリカで、イギリスで。そして、本国のフランスで――。
それから1週間後、東京地裁は前会長の保釈を認めなかった。
勾留が続くことが決まった後のルノーの動きは素早かった。前会長の後任会長にはタイヤ大手ミシュランから就いた。前会長のルノーの退任報酬について、ルメール経済財務相は「法外な額は誰の理解も得られない」と発言した。逮捕当初は「推定無罪」の原則をかざして前会長を擁護していたのに。
世界的なカリスマ経営者だった。でも、あの日、法廷で繰り広げたアピールと、その後の手のひら返しの境遇を思うと、どこかサラリーマン的な悲哀を感じてしまうのである。
逮捕されてから読売新聞に掲載された前会長の記事は、最終版だけでも330本を超える。ゴーン、ゴーン、ゴーン……。除夜の鐘に換算すると3年分は突いたことになる。
四苦(4×9)+八苦(8×9)=百八つ。前会長の苦難はしばらく続くはずだ。刑事裁判の見通しはおろか、事件の行く末すらわからないのだから。
この事件にどんな煩悩が秘められているのだろう。それがあらわになり、消えてなくなるまでに何年分の除夜の鐘を必要とするのだろう。
そして、鐘を突き終えた後に何が残るのだろう。