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ワクチンと特許…「落ちても死なない崖」を

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経済部デスク 松原知基

 恐る恐るのぞき込むと、足が震えた。高さ25メートルに達する崖から、ちらっと海が見える。「ここから落ちたら死んじゃうな」。子どもの頃、家族旅行で訪れた「東尋坊」(福井県坂井市)の記憶は鮮明に残っている。生まれて初めて死を間近に感じた場所だった。

断崖の高さが25メートルに達する東尋坊の「大池」。コロナ禍で観光に大きな打撃を受けた(2015年6月)
断崖の高さが25メートルに達する東尋坊の「大池」。コロナ禍で観光に大きな打撃を受けた(2015年6月)

 サスペンスドラマや映画のロケ地にもなった北陸屈指の観光地も、コロナの影響を大きく受けたようだ。福井県によると、大型連休期間中の1日あたりの観光客は、感染拡大前の2019年に比べて9割減だったという。

 崖から落ちる恐怖を感じる人も少なくなったか。

 崖から落ちたものの、はい上がった姿を見た。

 「感無量の思いだ」

オンライン記者会見に臨むエーザイの内藤晴夫CEO
オンライン記者会見に臨むエーザイの内藤晴夫CEO

 エーザイの内藤晴夫最高経営責任者(CEO)は6月9日のオンライン説明会で、アルツハイマー病の新薬「アデュカヌマブ」が米食品医薬品局(FDA)に承認されたことを受け、喜びを語った。

 アルツハイマー病の原因とされる物質を脳内から除去し、認知機能の低下を長期間抑えることを狙う世界初の薬だという。内藤氏は「検査体制の充実に従って収益面での貢献が大きくなる」と語った。

 期待が膨らむのも無理はない。エーザイは過去に、同じアルツハイマー治療薬で「崖」から落ちた経験を味わっているからだ。製薬業界の「パテントクリフ(Patent Cliff=特許の崖)」と呼ばれる崖である。

 もともとアルツハイマー治療薬は、エーザイの得意分野だった。1983年には認知症の研究を始め、90年代後半、進行を一時的に抑える「アリセプト」を発売した。売り上げはピークの2010年3月期に3228億円に達した。

 これはエーザイ全体の売上高の40%を占め、まさに会社を支える主力医薬品になった。売り上げが伸び続けていた時、筆者は製薬業界を担当していたが、「エーザイと言えばアリセプト」というイメージが強かった。

 しかし、「崖」が待っていた。わずか2年後の12年3月期に、アリセプトの売り上げは1471億円と半分以下になった。エーザイ全体に占める割合は23%まで落ち込んだ。

 何があったのか。

 新薬は出願から20年で、延長が認められればさらに5年で「特許切れ」を迎え、同じ有効成分で作られたジェネリック医薬品(後発薬)が出回る。開発に巨額を要する新薬に比べて後発薬は安いため、新薬はたちまちシェア(市場占有率)を奪われ、売り上げが激減する。これがパテントクリフである。

 そもそもエーザイのような製薬企業は、巨額の費用をつぎ込んで新薬の開発を進める。開発には10年以上かかることもあり、治験を重ねて販売にこぎ着けられるのは2万5000分の1程度とされる。

 このため、特許権が守られている間に新薬を独占的に販売し、大きな利益を上げる。その利益をもとに、次の新薬開発に挑む。製薬企業はこうしたビジネスモデルで「崖」を克服しようとしてきた。

 今、いつもより早く迫ってきそうな「崖」がある。新型コロナウイルスワクチンの特許権だ。

WTO本部
WTO本部
米ファイザー社の新型コロナワクチン
米ファイザー社の新型コロナワクチン

 米国のバイデン政権は5月、ワクチンの特許権保護の停止を認めると表明した。インドや南アフリカも昨秋、世界貿易機関(WTO)で一時停止を提案していた。先進国と新興国の「ワクチン格差」が背景にある。

 一方、製薬大手を抱える欧州連合(EU)や英国などは強く反対している。EUは「特許権の保護を維持しても、ワクチンの公平な供給は可能だ」と主張。WTOでの協議は平行線のままで、決着の見通しは立っていない。

 収益を支える根幹である特許権を奪われる製薬業界は、もちろん反対している。日本製薬工業協会の中山穣治会長も5月、「知的財産は、研究開発を促進するイノベーション(技術革新)の源泉だ」との声明を出した。

 非常に悩ましい問題である。

 パンデミック(感染症の世界的大流行)に対応するためのワクチンは、なるべく早く、幅広い国・地域で普及した方が良いに決まっている。特許権保護の一時停止によって普及が加速するなら、多くの命を救うことにつながる。

 一方で、特許権が保護されなくなれば、製薬企業は投資コストを回収できなくなり、ワクチン開発の意欲を失う恐れがある。今後も次々と変異ウイルスが現れたり、別の感染症が流行したりして新たなワクチンが必要になった時、開発を担う製薬企業がいなくなっていては大変だ。

 米国の医師、ジェレミー・グリーン氏は著書「ジェネリック」(野中香方子訳、みすず書房)で、後発薬の普及に伴って新薬開発の成功率が下がる「エルームの法則」を取り上げている。具体的には、開発費10億ドルで生まれる新薬の割合が、過去60年にわたって一定のペースで減少してきたという。

 安い後発薬が普及することは患者にとって歓迎すべきことだが、新薬開発を手がける製薬企業はコロナ禍の前から、特許切れ後の対応に苦しみ続けてきた。コロナワクチンの特許権の停止は、収益源を奪うことにつながる。容易に踏み切れるものではない。

 東尋坊は、 平泉寺(へいせんじ) (福井県勝山市)で悪行を重ねていた僧侶の名前が由来とされる。平安末期、その乱暴な振る舞いに業を煮やした僧侶たちが、東尋坊を泥酔させ、崖の上から突き落としたと伝わる。

 製薬企業が特許権の一時停止に反対しているからといって、悪行に手を染めているわけではない。崖から突き落とすとしても、すぐに命綱で引き上げ、その後の生存を保障することが必要ではないか。特許権停止を納得してもらうため、一定の補償をする国際的な枠組みがあってよい。

 「落ちても死なない崖」なら、のぞき込んでも足がすくむことはなく、次の一歩を踏み出せるだろう。

 読売新聞経済面の連載をまとめた「 インサイド財務省 」が、中央公論新社から発売されました。224ページで、価格は1650円(税込み)。全国の書店やインターネット通販でお求めになれます。

プロフィル
松原 知基( まつばら・ともき
 経済部デスク。1999年入社。千葉支局などを経て、2005年から経済部。自動車などの産業界や日本銀行、東京証券取引所、内閣府などを担当した。

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2149436 0 デスクの目~経済部 2021/06/23 15:00:00 2021/06/23 15:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210621-OYT8I50032-T.jpg?type=thumbnail

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