生死を分けた二つの偶然…ある被爆者の手記
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毎年8月になるとメディアは「戦争証言」を特集する。力を入れた取材が多く、いつも興味深く読む。
ただ気になることが一つある。戦後75年を経て、証言できる人が減っていることだ。いまや、戦争体験者の子や孫が伝え聞いた「戦争証言」が増えている。私が若い頃は「母親のおなかにいた時、父親を日露戦争で亡くした」と話すお
そこで、はたと思い出した。原爆投下直後の広島市内を歩いた人から数編の手記を譲り受けていたことを。十数年前のことだ。さっそく自宅の押し入れにあったのを探し出した。手記は、四半世紀前に書かれたもので、原稿用紙は黄色に変色していた。しかし、万年筆のインクは今なお鮮やかだった。
この夏休み、広島の地図を横に置き、パソコンの検索画面で固有名詞を一つ一つ確認しながら読んでみた。そこには驚くべき物語が記されていた。二つの偶然によって九死に一生を得たAさんの手記を紹介したい。細部は筆者の記憶違いがあるかもしれないが御了承願いたい。
Aさんは1927年(昭和2年)生まれ。原爆投下時は、18歳だった。12年前、81歳で天寿を全うしている。
広島の学校に在籍していたAさんは、学徒動員で愛知・豊橋の陸軍予備士官学校に入った。しかし、ある事情で久留米の陸軍予備士官学校への転属を命じられ、奉公袋(兵士が身の回りのものを入れた布製の袋)を携えて列車で久留米へ向かった。