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デマが滋賀まで――〈異聞〉2・26事件

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編集委員 前田恭二

 昭和史の暗転を象徴し、何度でも回顧されてしかるべき出来事ではあるだろう。2・26事件のことである。

水島爾保布(左)と長谷川如是閑(「鐘が鳴る」大正12年7月号)
水島爾保布(左)と長谷川如是閑(「鐘が鳴る」大正12年7月号)

 1936年(昭和11年)2月26日、青年将校らが政府要人を襲撃し、首都占拠を図った。ほどなく鎮圧されたものの、その威圧力はさらなる軍部の台頭を招いたと言われる。

 この2月も、新たに堀()(きよ)著『二・二六事件を読み直す』(みすず書房)が出版されたところだし、ここで経緯をおさらいするつもりもないのだが、ひとつ、紹介してみたい資料がある。

 いかにして情報は広がり、どんなデマが流れたのか。そこを生々しく伝えるコラムを、当時、滋賀県を探訪していた画家・漫文家の水島()()()(1884~1958年)が書き残している。

 それによれば、事件の概要は26日の日中、たちまち湖西地方の村落にまで届き、みるみる話に尾ひれがついたことがわかる。

号外や電話が発端、口伝えで「旋風のように拡まる」デマ

 まずはデマの背景について、少しばかり前置きを。

 事件当時のデマの氾濫は大変なものだったようで、たとえば高橋正衛著『二・二六事件』(中公新書)は、「一般の人びとのあいだでの流言()()はすさまじく」「旋風のように(ひろ)まっていくありさまであった」とする。同時に、不都合な記事は差し止めに、出版物は発禁にできる時代だった。それを踏まえ、高橋氏の新書には「二十六日の午後七時のラジオ放送まで一般市民は公式にはなにも知らされず、なにが起きたのかわからなかった」と記されている。

 もっとも、26日夜まで、何が起きたのかもわからなかったというのは、少々言い過ぎかもしれない。実際には不確かながら、相当な規模で情報が漏れ出していた。

 早い段階で新聞各社は事件を把握し、一部では統制前に報道してもいた。読売新聞の場合、現物は見たことがないけれど、号外を発行したと伝えられる。当時の雑誌に、その裏話が書いてある。

 なぜ号外が出せたのかと言うと、26日朝、陸軍大将・教育総監だった渡辺錠太郎邸の襲撃現場に、読売と国民新聞の配達員が遭遇したからだという。兵員は約30人だったが、機関銃を乱射しながら押し入り、渡辺を殺害した。人目についたのは間違いない。仰天した配達員はそれぞれの本社に通報した。渡辺総監遭難の号外発行となり、両新聞社とも差し止められるまでに、5000部から6000部は刷り上げ、配布したとされる。

 電話による情報拡散も見逃せない。当時の加入件数は87万と、それなりに普及していた。著名人の「その日」を記録した別の雑誌によれば、作家の久保田万太郎には、日本放送協会(NHK)から緊急電話が入った。ラジオドラマなどを差配していたからで、職場へ急行した。「文芸春秋」を率いた作家の菊池寛は午前9時半頃、凶変を知った。出入りの新聞配達からの電話だったという。

 号外ないしは電話で知った人々を起点に、さらに口伝えで広がったことは想像に難くない。かくして公式発表を待たず、デマは「旋風のように拡まっていくありさま」となったのである。

「二重橋前で激しい銃撃戦」「警視庁も放送局も賊軍が占拠」

 それが首都圏や大きな都市にとどまらず、滋賀県の郡部にまで届いていたことを伝えるのが、水島爾保布のコラムである。国粋主義の雑誌「大日」4月1日号に載っている。

「家の光」昭和11年5月号(12巻5号)、水島爾保布が文・画を担当した「新日本漫画風土記」滋賀県編
「家の光」昭和11年5月号(12巻5号)、水島爾保布が文・画を担当した「新日本漫画風土記」滋賀県編

 水島は画家ながら、文才に恵まれていた。ことに大正期後半から昭和初期まで、長谷川(にょ)()(かん)の雑誌で放言コラムを連載し、これが休刊に追い込まれると、如是閑とは旧知の国粋主義者、井上亀六に引っ張られ、その主宰する「大日」誌へ移って書き継いだ。ほかにも漫画・漫文をあちこちに書きまくっている。

 この時、滋賀県をうろついていたのも、雑誌「家の光」から「新日本漫画風土記」の滋賀県編を頼まれたからだった。これは同誌5月号に掲載され、こまごまと文化や産業を紹介している。2・26事件には一言も触れていない。逆に、もっぱら事件をめぐる風説を書いたのが「大日」のコラムである。双方を突きあわせると、いつどこで、どんな情報に接したかを跡づけることができる。

 東京を出発したのは24日夜のことだった。夜行列車に乗り、25日朝、大津に着いた。この日は比叡山近辺を歩いた。

 26日朝の段階では当然、事件を知るよしもない。堅田や白鬚神社を経て、青柳村(現・高島市)で近江出身の儒者・中江藤樹の故地を見学していたところ、案内役の会話が耳に入った。

 「東京ではえらいことをやりましたなア。戒厳令たらいうてゞおすがホンマどすやろか」

 「そんなにいうてゞおしたが、何せ、それきり電話もなもありやせんさかい、なも(わか)らんでな」

 彼らにも電話が入ったのである。旅程から推測するに、まだ夕方にもならない時分だろう。水島は何らかの変事を察し、どういう話か尋ねてみた。「数名の陸軍将校が、部下の手兵を指揮して、首相内大臣以下各大臣及び重臣大官等の官邸私邸を襲撃した。首相と内大臣は即死、蔵相は重傷、その他生死不明の者などもあつて、その為め東京には戒厳令が施行された」とのことだった。

 あるいは、おや?と思う人もあるかもしれない。内大臣斎藤実が即死したことは事実だが、首相の岡田啓介は危うく死地を免れ、逆に蔵相の高橋是清は即死ではなかったのかと。

 結論を言えば、ひどく情報が(さく)(そう)し、この時点では、むしろ正確に伝わっていたと言ってよい。26日午後8時過ぎ、陸軍省の公式発表も「岡田首相即死」「大蔵大臣負傷」なのだった。

昭和11年2月27日付読売新聞朝刊「首相、内府、教育総監即死」
昭和11年2月27日付読売新聞朝刊「首相、内府、教育総監即死」

 水島は(こう)(じゃく)鉄道の駅に出た。ひげの男から「大将は△△さんだつてえが本当でせうか」と話しかけられた。掲載誌の「大日」は国粋主義の雑誌だから、昭和戦前期においても伏せ字は少ないのだが、それでも活字化をはばかるようなデマまで生じていた。

 今津に着き、竹生島へ渡ることにした。発動機船の青年は「東京では戦争がはじまつた」と言った。第1師団と近衛師団が二重橋前と日比谷公園に機関銃を据え付け、激しい銃撃戦を行っているというのだが、また聞きのまた聞きらしかった。

 竹生島では、若い僧から「東京の方の模様は」と聞かれた。2日前に東京を離れていて、わかるはずもない。もっとも、東京にいたところで、わからないだろうと水島は考えた。「何しろ、人殺しをしてその場でつかまつてゐても、……どこの何て者だかは、三日たつても五日たつても判らないといつたやうな、およそ馬鹿げ切つた当節である」。宰相犬養毅を殺害した4年前の5・15事件の際、しばらく実行者の氏名が伏せられたことを指すのだろう。

 正確な情報を出さないから、デマが飛ぶ。「何の事はない流言蜚語製造屋の為めに、専らその能力を発揮させるべく、惜しげもなく乗ずべき機会を与へてゐるやうな当節」と皮肉っている。

昭和11年2月28日付読売新聞朝刊「高橋蔵相遂に逝く」
昭和11年2月28日付読売新聞朝刊「高橋蔵相遂に逝く」

 その先も水島はデマを記録しつづける。手帳の隅にメモしていたという。それをもとに、27日、野洲から大津へ向かう際、列車のなかで耳に入った話を列挙している。以下、一部を紹介する。

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1896165 0 編集委員の目 2021/03/09 10:00:00 2021/03/09 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/03/20210305-OYT8I50049-T.jpg?type=thumbnail

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