デマが滋賀まで――〈異聞〉2・26事件
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昭和史の暗転を象徴し、何度でも回顧されてしかるべき出来事ではあるだろう。2・26事件のことである。

1936年(昭和11年)2月26日、青年将校らが政府要人を襲撃し、首都占拠を図った。ほどなく鎮圧されたものの、その威圧力はさらなる軍部の台頭を招いたと言われる。
この2月も、新たに堀
いかにして情報は広がり、どんなデマが流れたのか。そこを生々しく伝えるコラムを、当時、滋賀県を探訪していた画家・漫文家の水島
それによれば、事件の概要は26日の日中、たちまち湖西地方の村落にまで届き、みるみる話に尾ひれがついたことがわかる。
号外や電話が発端、口伝えで「旋風のように拡まる」デマ
まずはデマの背景について、少しばかり前置きを。
事件当時のデマの氾濫は大変なものだったようで、たとえば高橋正衛著『二・二六事件』(中公新書)は、「一般の人びとのあいだでの流言
もっとも、26日夜まで、何が起きたのかもわからなかったというのは、少々言い過ぎかもしれない。実際には不確かながら、相当な規模で情報が漏れ出していた。
早い段階で新聞各社は事件を把握し、一部では統制前に報道してもいた。読売新聞の場合、現物は見たことがないけれど、号外を発行したと伝えられる。当時の雑誌に、その裏話が書いてある。
なぜ号外が出せたのかと言うと、26日朝、陸軍大将・教育総監だった渡辺錠太郎邸の襲撃現場に、読売と国民新聞の配達員が遭遇したからだという。兵員は約30人だったが、機関銃を乱射しながら押し入り、渡辺を殺害した。人目についたのは間違いない。仰天した配達員はそれぞれの本社に通報した。渡辺総監遭難の号外発行となり、両新聞社とも差し止められるまでに、5000部から6000部は刷り上げ、配布したとされる。
電話による情報拡散も見逃せない。当時の加入件数は87万と、それなりに普及していた。著名人の「その日」を記録した別の雑誌によれば、作家の久保田万太郎には、日本放送協会(NHK)から緊急電話が入った。ラジオドラマなどを差配していたからで、職場へ急行した。「文芸春秋」を率いた作家の菊池寛は午前9時半頃、凶変を知った。出入りの新聞配達からの電話だったという。
号外ないしは電話で知った人々を起点に、さらに口伝えで広がったことは想像に難くない。かくして公式発表を待たず、デマは「旋風のように拡まっていくありさま」となったのである。
「二重橋前で激しい銃撃戦」「警視庁も放送局も賊軍が占拠」
それが首都圏や大きな都市にとどまらず、滋賀県の郡部にまで届いていたことを伝えるのが、水島爾保布のコラムである。国粋主義の雑誌「大日」4月1日号に載っている。

水島は画家ながら、文才に恵まれていた。ことに大正期後半から昭和初期まで、長谷川
この時、滋賀県をうろついていたのも、雑誌「家の光」から「新日本漫画風土記」の滋賀県編を頼まれたからだった。これは同誌5月号に掲載され、こまごまと文化や産業を紹介している。2・26事件には一言も触れていない。逆に、もっぱら事件をめぐる風説を書いたのが「大日」のコラムである。双方を突きあわせると、いつどこで、どんな情報に接したかを跡づけることができる。
東京を出発したのは24日夜のことだった。夜行列車に乗り、25日朝、大津に着いた。この日は比叡山近辺を歩いた。
26日朝の段階では当然、事件を知るよしもない。堅田や白鬚神社を経て、青柳村(現・高島市)で近江出身の儒者・中江藤樹の故地を見学していたところ、案内役の会話が耳に入った。
「東京ではえらいことをやりましたなア。戒厳令たらいうてゞおすがホンマどすやろか」
「そんなにいうてゞおしたが、何せ、それきり電話もなもありやせんさかい、なも
彼らにも電話が入ったのである。旅程から推測するに、まだ夕方にもならない時分だろう。水島は何らかの変事を察し、どういう話か尋ねてみた。「数名の陸軍将校が、部下の手兵を指揮して、首相内大臣以下各大臣及び重臣大官等の官邸私邸を襲撃した。首相と内大臣は即死、蔵相は重傷、その他生死不明の者などもあつて、その為め東京には戒厳令が施行された」とのことだった。
あるいは、おや?と思う人もあるかもしれない。内大臣斎藤実が即死したことは事実だが、首相の岡田啓介は危うく死地を免れ、逆に蔵相の高橋是清は即死ではなかったのかと。
結論を言えば、ひどく情報が

水島は
今津に着き、竹生島へ渡ることにした。発動機船の青年は「東京では戦争がはじまつた」と言った。第1師団と近衛師団が二重橋前と日比谷公園に機関銃を据え付け、激しい銃撃戦を行っているというのだが、また聞きのまた聞きらしかった。
竹生島では、若い僧から「東京の方の模様は」と聞かれた。2日前に東京を離れていて、わかるはずもない。もっとも、東京にいたところで、わからないだろうと水島は考えた。「何しろ、人殺しをしてその場でつかまつてゐても、……どこの何て者だかは、三日たつても五日たつても判らないといつたやうな、およそ馬鹿げ切つた当節である」。宰相犬養毅を殺害した4年前の5・15事件の際、しばらく実行者の氏名が伏せられたことを指すのだろう。
正確な情報を出さないから、デマが飛ぶ。「何の事はない流言蜚語製造屋の為めに、専らその能力を発揮させるべく、惜しげもなく乗ずべき機会を与へてゐるやうな当節」と皮肉っている。

その先も水島はデマを記録しつづける。手帳の隅にメモしていたという。それをもとに、27日、野洲から大津へ向かう際、列車のなかで耳に入った話を列挙している。以下、一部を紹介する。