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〝知らないまち〟が消えていく

まちという場所は、人類にとって画期的な発明品だった、とかつて書いた。多種多様な人が集まることで、アイデア・労働・時間・お金といったものをシェアしたり、交換したり、融通したりするチャンスを生む仕組み、それがまちだと(したがって、村にも、まち的な要素はある)。偶然の要素があるからリスクも危険もあるけれど、想像もしなかったきっかけが生まれる、思わぬ出会いがあるから刺激的で楽しい、まちは本来そういう側面を持っている。
人類のメンタリティーにはおそらく、まちに対するあこがれや不安に共鳴・共振する能力(あるいは感度)が組み込まれている。「知らない街を歩いてみたい」「愛する人とめぐり逢いたい」と歌う、永六輔さん作詞・中村八大さん作曲の『遠くへ行きたい』に漂うえたいの知れない寂しさは、ほかでもないその能力の間接証明なんじゃないかとぼくはにらんでいる。
まちが抱える未知の領域、これがあらゆる種類の偶発を生み、予想を裏切る。人によっては座標を失い、迷子になる。迷宮のまちと
ところが最近のまちは、いや正確には、まちと人との関係は最近、根本的に変わりつつある気がしてならない。まちはあらかたデータベース化され(ていると思い込まれ)ていて、あらかじめ調べることができて、現地に赴くにしてもすでに絞り込まれた目的地に向かって、スマホを手にして直線的に進む。そこにあるのは、未知や偶然や発見が入り込む余地のない透明な、必然のまちだ。
首都圏でも進むまちの〝ファスト〟化

どことは言わないけど、首都圏でもつまらないまちがどんどん増えている。ガラスを多用したぴかぴかの高層ビルが立ち並んで、地下は地下で判で押したようにこぎれいな店がカタログみたいに軒を連ねる、そういうまちだ。評論家の三浦展さんはかつて、地方の郊外で進む画一的なまちづくりを<ファスト風土化>と呼んで批判的に論じたが、地方に限らずいまやどこも似たようなことになっているのではないかと心配になる。趣向を凝らしているわりにビルの外も中もなぜか既視感が強く、使い捨て可能なまちが再生産されている印象をぬぐえないのだ。
原因は、デベロッパー・不動産業者・ゼネコン・金融といった開発企業体の思惑だけではないだろう。人のほうも、まちに対して発見や出会いの体験を期待しなくなっている。予定通りの買い物やグルメが楽しめれば、それでよし。どこになにがあるのか、事前にわかっているとなお安心、というわけだ。
そうなれば、人は計算通りまちに出入りする最小単位にすぎないし、まちも規格通りにつくられた容器のようなものだ。少なくともぼくは、そんなまちに敬意や愛着を感じることはない。未知と偶然の絡み合いもなく、目的地と消費者が点と点で結ばれる、数学上の写像のような関係には興味もない。
もう、まちの下の記憶、どころではない。まちは公共空間であることさえやめ、店舗であれ住宅であれ、施設の集積装置でしかなくなる。そのまちがかつてどんな空間だったか、その土地でなにが起きたか、一顧だにされず、古いビルをまとめて取り壊して新しい大型のビルにつくり変える作業だけが繰り返される。いま、日本の各地で起きているのはひょっとして、そういう出来事なんじゃないか。まちの未知と偶然に人が感化され、その人がまちを育てていく双方向の関係は途絶え、まちと人の両方に、相転移のようなことが同時に起きているんじゃないか。人にとってまちが、かけがえのない場所でもないなら、まちにとって人も、入れ替え自在なピースになる、というような。
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