<世界の中の日露戦争>第13回~奉天会戦と日本海海戦

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調査研究本部主任研究員 浅海伸夫

日露戦争の「関ケ原」

 日露戦争はここに至り、海陸とも一大決戦を求める動きが()みませんでした。陸では旅順が陥落したものの、厳寒期・満州(現中国東北部)北方の戦場では、日露両軍が沙河(さか)をはさんで長期対陣のまま越年しました。

 満州軍はこの間、防寒や給養対策に力を入れていました。とくに兵士らを悩ませていたのが脚気(かっけ)(ビタミンB1の欠乏症)です。一時は毎月1万人を超える患者を出していました。

 年が明けて1905(明治38)年1月24日夜、ロシア軍が突如、黒溝台(こっこうだい)付近で日本軍の左翼に攻め入ります。予期せぬ大攻勢に、満州軍総司令部は、あわてて第8師団を投入しますが、ロシア軍が占領した黒溝台を奪回できず、援軍として第5師団と第2・第3師団を増派します。

 両軍譲らず、3昼夜にわたる大激戦の末、日本軍は、約10万5000人を擁する強力なロシア軍を撤退に追い込みました。しかし、黒溝台の戦いにおける日本軍の死傷者数は約9300人に上り、ロシア軍はそれを上回る死傷者を出しました。

 ロシア軍の攻勢をしのいだ満州軍総司令部は、次いで奉天(ほうてん)(現・瀋陽(しんよう))攻略の作戦準備にとりかかります。

大山巌
大山巌

 2月20日、大山巌総司令官は、第1~第4軍の司令官らを集めて、「この会戦で勝ちを制したるものは、この戦役の主人となるべく、実に日露戦争の『関ケ原』(1600年、石田三成の西軍と徳川家康の東軍が戦った天下分け目の合戦)と言うも不可なからん」と訓示しました。

 ロシア軍は、遼陽や沙河の会戦などで退却作戦をとり、日本軍を満州の北へ北へと引き入れ、日本側の兵站線(へいたんせん)(兵士や物資を補給するための連絡路)が伸び切ったところで、一気に叩く戦術をとっていました。

 これに対し、日本軍は「奉天会戦」に全戦力を投入し、ロシア野戦軍の包囲殲滅(せんめつ)を目指します。

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1402140 0 「世界と日本」史 2020/08/12 05:20:00 2020/08/12 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/07/20200729-OYT8I50054-T.jpg?type=thumbnail

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