調査研究本部主任研究員 浅海伸夫
西園寺内閣の成立
西園寺公望
桂太郎 第1次桂内閣の退陣を受けて、1906(明治39)年1月、第1次西園寺内閣が発足します。
首相は西園寺公望(1849~1940年)、内務相に原敬(1856~1921年)、法相に松田正久(1845~1914年)、農商務相は松岡康毅、文相は牧野伸顕(1861~1949年)、蔵相は阪谷芳郎、陸相は寺内正毅、外相は加藤高明(1860~1926年)、逓信相は山県伊三郎、海相は斎藤実(1858~1936年)でした。
政友会所属は西園寺、原、松田の3人にすぎず、政党、貴族院、薩長閥、元老など諸勢力の均衡内閣でした。「藩閥内閣から政党内閣への過渡期の始まり」と位置付けられ、政党がその実力をもって権力の中枢に割り込んだかたちでした。(山本四郎著『日本政党史(下)』)
伊藤博文の後継者
新首相の西園寺は、公家の名門「九清華」の家柄に生まれ、明治天皇とは幼なじみでした。
戊辰戦争に従軍したあと、1871年に渡仏し、パリ大学で法律を学びます。同年、パリ・コミューンの市街戦を直接目撃したことは、連載の<米欧回覧と文明開化>第7回「ビッグ・ベンと凱旋門」で紹介しました。
西園寺は、進歩的な法学者であるアコラスから教えを受け、急進社会党の指導者で後に首相となるクレマンソー(1841~1929年)とも交際しました。
東洋自由新聞 1880年に帰国した西園寺は翌年3月、フランスで知り合った中江兆民や松田正久らとともに「東洋自由新聞」を創刊し、社長に就任します。
自由民権運動が高揚しつつある中、西園寺の社長就任は物議をかもし、岩倉具視・右大臣らから辞任の圧力がかかります。宮中からもその旨の「御沙汰」が伝えられますが、西園寺は承服せず、「華族にだけ新聞事業を禁じるのは理解しがたい」などと上奏文を提出します。
しかし、最後は天皇から、社長を辞めるようにとの「内勅」(天皇の内々の命令)が出され、81年4月に辞任しました。
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