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<第1次世界大戦と日本>第3回 新時代はやってくるか

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調査研究本部主任研究員 浅海伸夫

「人間的な」大正天皇

大正天皇
大正天皇

 明治天皇逝去後、ただちに即位した大正天皇は、1879(明治12)年8月31日、明治天皇の第3皇子として生まれました。名は 明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと) 。生母は 権典侍(ごんのないしのすけ) の柳原 (なる)() でした。

 大正天皇は幼少のころ、病弱でした。このため、学習院にすぐ入学せずに、特別に設けられた御学問所で教育を受けます。87年に学習院に編入学し、初等科を卒業して中等科に進みますが、間もなく中退しました。

成婚当日の大正天皇(左)と皇后
成婚当日の大正天皇(左)と皇后

 95年5月には風邪、腸チフスに続いて、軽い肺結核にかかり、一時は重体に陥りましたが、11月には全快しました。

 1900年5月10日、旧摂家、九条 道孝(みちたか) の四女 節子(さだこ) と結婚し、翌年4月に第1皇子、 迪宮(みちのみや) 裕仁親王(昭和天皇)が誕生します。02年に第2皇子(のちの秩父宮)、05年に第3皇子(のちの高松宮)、15年には第4皇子(のちの三笠宮)が生まれます。

 大正天皇は日露戦争後、明治天皇の 名代(みょうだい) として地方巡啓を行うようになります。07年5~6月は山陰地方を回り、各地で大歓迎をうけます。とくに、京都、鳥取、島根の3府県内の学校には、明治天皇の「御真影」に相当する皇太子の「御写真」が初めて下賜されました。(原武史著『大正天皇』)

 天皇は同年10月、韓国統監・伊藤博文の要請により、 有栖川(ありすがわ)威仁(たけひと) 親王、東郷平八郎元帥、桂太郎前首相らを従えて、併合前の韓国を公式訪問しました。帰国後は、そのまま南九州や高知への巡啓を行い、無事、1か月以上に及ぶ長旅を終えました。

 02年から半世紀にわたり宮中で皇族に近侍した 坊城(ぼうじょう)俊良(としなが) は、著書『宮中五十年』で、大正天皇が皇太子の時、沼津御用邸の裏門から、流行の自転車に乗って飛び出し、わざとお (とも) をまいて近くの民家に立ち寄り、「お茶を一杯」と所望していたエピソードを紹介しています。

 これは後年、巡啓でも、突然、日程を変えたり、行く先々で人々に気軽に話しかけたりする人柄を想起させます。坊城は、大正天皇について、「終戦後、占領政策の要請とかで、わざわざ”人間天皇”の御宣言があったが、私たちからいわせると、不思議でもあれば不可解でもある。大正天皇のごときは、もっとも人間的な、しかも温情あふるる親切な天皇であられた」と述懐しています。

子どもの手を取る大正天皇(右)。2人の息子は後の昭和天皇と秩父宮
子どもの手を取る大正天皇(右)。2人の息子は後の昭和天皇と秩父宮

大正政変と天皇

 大正天皇は、明治天皇の大喪など重要行事のあと、「大正政変」に遭遇しました。

 首相の西園寺公望が辞任すると、天皇はまず、内大臣兼侍従長だった桂太郎に後任問題を下問し、桂は元老会議を招集しました。桂は、次期首相に内定すると、首相への復帰を許す「勅語」を天皇に求め、政権に返り咲きました。

 桂は、その後も、閣僚の留任、議会の停会、不信任案撤回要求などに勅語を使いました。尾崎行雄が、「詔勅を以て弾丸に代えて」と、桂を厳しく糾弾したのはこのためで、桂が政権を追われた経緯は、前回書いた通りです。

 即位したばかりの天皇は、政治に不慣れのうえ、適切な助言者もいませんでした。天皇は、桂の度重なる勅語の求めにすべて応じることになります。12年7月31日の朝見式(朝見の儀)の勅語で、天皇は、「憲法の条章に () り、 (これ) が行使を (あやま) ること無く」と述べましたが、勅語の乱発は、憲法の大義に反することになりました。

 また、朝見式での天皇の落ち着きのない態度を心配する声も参列者から出ていました。西園寺首相は、即位後すぐの天皇に対し、「政事向きの事」で「苦言」を呈したとされます。

皇太子時代に韓国を訪問し記念写真に収まる大正天皇(前列左から3人目。1907年10月)
皇太子時代に韓国を訪問し記念写真に収まる大正天皇(前列左から3人目。1907年10月)

 また、尾崎は、先の桂 弾劾(だんがい) 演説の中で、「詔勅であろうとも、何であろうとも、およそ人間のなすところのものに、過ちのないということはいえない」と述べ、物議を醸しました。桂後継の山本権兵衛も、首相就任前に、明治天皇とは異なるところのある大正天皇への不信の念を周囲に語っていました。

 新天皇は、威厳を保ち続けた明治天皇と比較されがちでした。それにしても、就任早々、「桂の言いなり」になったことは、世論の期待を裏切り、「結果的に統治権の 総覧(そうらん)(しゃ) としての威信を確立する絶好の機会を生かせなかった」ということになります。(古川隆久著『大正天皇』)

美濃部達吉の天皇機関説

美濃部達吉
美濃部達吉
「憲法講話」初版本
「憲法講話」初版本

 明治から大正に代わる12年、日本社会ではいわゆる「大正デモクラシー」を象徴するような出来事がいくつか起きています。

 その一つが天皇機関説論争です。

 この年、憲法学者で東京帝国大学教授の 美濃部(みのべ)達吉(たつきち) (1873~1948年)は、『憲法講話』を発刊し、同僚の 上杉(うえすぎ)慎吉(しんきち) 教授(1878~1929年)との間で、天皇機関説をめぐる論争を展開しました。論争は、単に学会誌にとどまりません。総合雑誌『太陽』が他の学者らの賛否両論を掲載して注目を集めます。

 明治憲法は、第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇 (これ) ヲ統治ス」と天皇の地位が神聖な皇統に基づくと宣言しています。その一方、第4条は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ 総攬(そうらん)() ノ憲法ノ条規ニ () リ之ヲ行フ」と定め、立憲君主制らしく天皇の権限を制限していました。

 このため、主権の存在の解釈をめぐっても、統治権は君主にあるとする「君主主権説」と、統治権は法人である国家にあり、天皇はその機関として統治権を行使するという「天皇機関説」とが対立しました。

 前者を唱えたのが、 穂積(ほづみ)八束(やつか) とその後継者の上杉で、後者が 一木(いちき)喜徳郎(きとくろう) の教えを受けた美濃部でした。

 美濃部は、『憲法講話』の序で、憲法施行から二十余年を経ながら、憲法学者の間にすら、「なお言を国体に () りてひたすらに専制的の思想を 鼓吹(こすい) し、国民の権利を抑えてその絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下にその実は専制政治を行わんとするの主張を聞くこと (まれ) ならず」と指摘。そうした「一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排する」ため、この本を著したと述べています。

 美濃部が「変装的専制政治」を説く学者として論難をあびせたのは、穂積と上杉でした。これに対して、上杉も黙っていません。美濃部の国家法人説は、「民主の思想を法学の (ふるい) にかけて圧搾した」もので、そこでは君主は国家の機関、人民の「使用人」とされるため、日本の国体にもとると反撃しました。

 美濃部と上杉は、それぞれドイツに留学経験がありました。興味深いのは、留学を通じて感得した2人の時代認識が対照的だったことです。

上杉慎吉
上杉慎吉

 1899~1902年まで留学した美濃部は、「民主化の不可避的大勢」に確信を深めたのに対し、06年から留学した上杉は、「帝国主義列強の 角逐(かくちく) 、国家主義の 昂揚(こうよう) 、君主制の復権、議会制の 凋落(ちょうらく) こそ時代の大勢である」と確信し、09年に帰国しました。(長尾龍一著『日本憲法思想史』)

 上杉が留学中の08年、ドイツの同盟国であるオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン情勢が流動化し、12年にはバルカン戦争が勃発、第1次世界大戦に向け風雲急を告げます。

 美濃部・上杉論争があった12年は、大正政変と護憲運動が始まった年でもありました。

 憲政擁護を叫んだ「『民軍』の政治目標は政党内閣制、すなわち美濃部学説の想定した議会主義君主制の樹立」でした。これに対し、議院内閣制を排斥する「上杉流の大権内閣諭は、もとより桂内閣の理論的支柱」であり、大正政変は、まさに「この二つの憲法学説の当否を政治的に争ったもの」にほかならなかったのです。(松尾尊★著『大正デモクラシーの群像』)(★は公ににんにょう)

 両者の論争は、美濃部の側に分があり、当初、一部から「危険思想」視された天皇機関説は、大正時代に入ると学界では通説として定着し、一般社会にも浸透していきました。第1次世界大戦を機に民主主義思想が世界に普及したことも、美濃部説の追い風になりました。

 しかし、国家主義の機運が高まる1935(昭和10)年、天皇機関説は、軍部や国家主義団体から「皇国の国体を破壊するもの」などとして排撃されます。そして、美濃部の著書は発禁処分を受け、天皇機関説は抹殺され、美濃部は貴族院議員も辞職させられることになるのです。

 ちなみに1967~79年、「革新都政」を掲げて東京都知事を3期務めた美濃部亮吉は、達吉の長男です。

労働運動の「友愛会」

鈴木文治
鈴木文治

 大正デモクラシー運動を支える労働組合の組織が、大正の初めに芽吹きます。

 12年8月1日、鈴木 文治(ぶんじ) (1885~1946年)が、東京・芝の統一基督教弘道会の「 惟一館(いいつかん) 」で、労働者の親睦、相互扶助を目的に「友愛会」を設立しました。発会式に集まったのは、鈴木をはじめ機械工や電気工ら計15人の会員でした。

 鈴木は東京帝大在学中、本郷教会の牧師・ 海老名(えびな)弾正(だんじょう) (後に同志社大総長)や吉野作造、安部磯雄らの影響を受け、社会問題への関心を深めました。

 当時は、言論・結社の自由が制限され、労働運動も弾圧されていました。労働者の多くは、厳しい労働と人格すら認められていないことに 鬱屈(うっくつ) した思いを抱いていました。そこで友愛会は、「互いに相携えて、見聞も広め、 智識(ちしき)(みが) き、道徳、品性の修養をも図る」ことで、まず、労働者の地位の向上を目指しました。

 この労使協調の路線は、資本家たちにも歓迎され、財界の大御所、渋沢栄一のようにこれを支援する人も現れます。機関紙として「友愛新報」も発行され、有力企業の労働者の加入も得て、年末には、会員は260人に達しました。

 その後、鈴木は15年6月、アメリカの日本移民排斥運動にアメリカの労働団体が関与していることから、その緩和を求めて訪米。アメリカ労働総同盟(AFL)大会などに出席するなどして労組リーダーらと交流しました。

 半年後に帰国すると、鈴木は労働者の団結権とストライキ権とを要求し、労働運動を認めるべきだと説きます。(今井清一著『大正デモクラシー』)

 18年、友愛会の会員は3万人を数え、19年の7周年大会において大日本労働総同盟友愛会と改称、8時間労働制の確立を要求するなど次第に急進化し、ストライキなど労働争議も増大します。20年には日本最初のメーデーが行われますが、総同盟内部の路線対立も深まります。

「新しい女」宣言

平塚らいてう
平塚らいてう

 女性たちもこの頃、新しい動きを開始しました。

 1913年1月、雑誌『中央公論』は、鳩山春子、田村俊子、与謝野晶子らによる「 閨秀(けいしゅう) 十五名家一人一題」を企画しました。

 そこに平塚らいてう( 雷鳥(らいちょう) 、1886~1971年)は、散文詩風の作品を寄せ、「自分は新しい女である」と宣言、「男の便宜のために造られた (ふる) き道徳、法律を破壊しよう」と書きました。

 その1年半前の11年9月、平塚は、女性だけの手によって、文芸誌『 青鞜(せいとう) 』を創刊し、新しい時代の到来を宣揚しました。ところが、青鞜社には非難が押し寄せ、社員は動揺し、退社が相次ぎます。これに対して、平塚は、「周囲から投げつけられる『新しい女』の呼称を逆手に、決然として開き直って」、この闘争宣言を書いたのでした。(堀場清子著『青鞜の時代』)

 青鞜社は、平塚が主唱し、中野初子、 保持(やすもち)研子(よしこ)木内(きうち)錠子(ていこ)物集(もずめ) 和子の5人を発起人として生まれました。物集を除く4人は、みな日本女子大学校の卒業生でした。

 その目的は、「女流文学の発達」を図り、「各自天賦の特性を発揮」させ、他日、「女流の天才」を生み出すことでした。

 青鞜社に集ったメンバーは、そろって家制度に反逆し、良妻賢母思想を批判しました。それは「一見女性の役割を認めるように見えながらも、女性の主体を損ない、男女の実際的な不平等と不自由を作り出すもの」とみていたからです。(成田龍一著『大正デモクラシー』)

 なお、「青鞜」は、ブルーストッキングの訳です。18世紀のロンドンで、ある夫人のサロンに集まり、さかんに芸術などを論じていた女性たちが、黒い絹の靴下の代りに青い毛糸の靴下をはいていたことから嘲笑的に「青鞜」と呼ばれたことにちなみ、名付けられました。

元始、女性は太陽であった

 「青鞜」の創刊号の文章を、平塚はこう書き出しました。

 <元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に () って生き、他の光によって輝く、病人のような 蒼白(あおじろ) い顔の月である。
 さてここに(略)現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は 初声(うぶごえ) を上げた。(略)
 私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
 「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ」、……>

「青鞜」創刊号の表紙
「青鞜」創刊号の表紙

 創刊号で、まっすぐに立つ女性の姿の表紙絵を描いたのは、洋画家で、のちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子でした。そして、青鞜第1巻第1号の巻頭を飾ったのは、与謝野晶子の作品、「そぞろごと」(詩)でした。

 山の動く日 (きた) る。/かく () えども人われを信ぜじ。/山は (しばら) く眠りしのみ。/その昔に (おい) て/山は皆火に燃えて動きしものを。/ されど、そは信ぜずともよし。/人よ、ああ、唯これを信ぜよ。/すべて眠りし (おなご) 今ぞ目覚めて動くなる。 

 平塚は、20年には市川房枝らと「新婦人協会」を結成し、さらに婦人参政権獲得期成同盟会を作って参政権運動を展開します。女性に参政権が認められるのは、敗戦後の45年12月まで待たなければなりませんでした。

 その半世紀後の89年7月、参院選で社会党が議席を倍増させ、参院で初めて与野党が逆転しました。「マドンナ旋風」で女性の進出が目立ち、計22人(うち半数は社会党)が当選します。その時、社会党のリーダ―、土井たか子委員長は、「山が動いてきた」と勝利宣言しました。その言葉の原典こそ、与謝野晶子の「そぞろごと」でした。

【主な参考・引用文献】
▽古川隆久『大正天皇』(人物叢書、吉川弘文館)▽原武史『大正天皇』(朝日文庫)▽坊城俊良『宮中五十年』(講談社学術文庫)▽読売新聞昭和時代プロジェクト『昭和時代 戦前・戦中期』(中央公論新社)▽長尾龍一『日本憲法思想史』(講談社学術文庫)▽松尾尊★著『大正デモクラシーの群像』(同時代ライブラリー、岩波書店)▽今井清一『日本の歴史23 大正デモクラシー』(中公文庫)▽武田晴人『日本の歴史19 帝国主義と民本主義』(集英社)▽成田龍一『シリーズ日本現代史4 大正デモクラシー』(岩波新書)▽同『近現代日本史との対話【幕末・維新―戦前編】』(集英社新書)▽堀場清子『青鞜の時代―平塚らいてうと新しい女たち―』(岩波新書)▽美濃部達吉『憲法講話』(解説・高見勝利、岩波文庫)▽五味文彦ほか編『詳説日本史研究』(山川出版社)
(★は公ににんにょう)

 (本文中、出典のない写真は国立国会図書館蔵など)

プロフィル
浅海 伸夫( あさうみ・のぶお
 1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。

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2125776 0 「世界と日本」史 2021/06/16 05:20:00 2021/06/16 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210609-OYT8I50037-T.jpg?type=thumbnail

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