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<第1次世界大戦と日本>第4回 山本内閣、海軍汚職で沈む

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調査研究本部主任研究員 浅海伸夫

山本権兵衛の登場

山本権兵衛
山本権兵衛

 桂退陣を受け、その後継を選ぶため、1913(大正2)年2月11日、元老会議が開かれました。この会議には「元老」として西園寺公望も出席し、新しい首相に 山本(やまもと)権兵衛(ごんべえ) (1852~1933年)を推薦します。会議ではこれが承認され、同月12日、山本に組閣命令が出されました。

 山本は、薩摩藩の 槍術(そうじゅつ) 師範役の子として生まれ、薩英戦争、戊辰戦争に従軍しました。海軍兵学寮を卒業後、『天城』などの艦長をつとめ、大本営海軍参謀など海軍の要職を歴任しました。1898年、第2次山県内閣で海軍省軍務局長から海軍相に 抜擢(ばってき) され、以後、第4次伊藤、第1次桂内閣でも留任して海軍拡張計画を推進、日露戦争を遂行しました。

 組閣時にはすでに海軍の大御所であり、 薩派(さっぱ) の中心的な存在でした。 精悍(せいかん) な顔つき、迅速果敢な仕事ぶりには定評がありました。ただ、軍人特有の尊大な態度を嫌がる向きもあったようです。

 新首相に薩派の海軍リーダーが選ばれたことを世論は歓迎しませんでした。「閥族打破」で政権交代が起きたのに、「またも閥族か」という思いからです。

 山本は、首相になるにあたって、最大党派の政友会の支援を条件にしました。政友会の立場は微妙でした。長州閥の桂を倒して、薩摩閥・山本の与党に収まってしまっては、「閥族打破」の筋が通らない。とはいえ、山本に協力せず、山本が就任を辞退してしまうと、桂の続投や官僚内閣が再現しかねないというジレンマがありました。

 そこで、政友会幹部の原敬は、「政党内閣でなければいけないというなら、山本に政友会の政策を実行させればよい。首相、外相、陸相、海相以外は政友会に入党させよう」と言って、党内の異論を抑え込みます。だが、尾崎行雄や岡崎邦輔ら24人が脱党して政友倶楽部を結成しました。分裂の結果、政友会は議会で過半数割れを起こしますが、復党工作の結果、やがてほとんどが舞い戻ります。

 第1次山本内閣は2月20日、次のような顔ぶれで成立しました。

 ▽首相・山本権兵衛 ▽外相・牧野 伸顕(のぶあき)  ▽内相・原敬 ▽蔵相・高橋是清 ▽陸相・ 木越(きごし)安綱(やすつな)  ▽海相・斎藤実 ▽法相・松田正久 ▽文相・奥田義人 ▽農商相・山本達雄 ▽逓信相・元田肇

「現役武官制」の廃止

 山本首相はさっそく諸改革に着手し、3月11日、軍部大臣現役武官制と文官任用令を改正する意向を表明しました。

陸軍の官制改正(一部、国立公文書館蔵)
陸軍の官制改正(一部、国立公文書館蔵)

 陸軍は、先に軍部大臣の現役武官制(陸・海相は現役の陸・海軍大中将に限る)によって大臣を出さず、西園寺内閣を倒しました。山本首相は、このルールを、大臣は大中将に限るものの、現役でなくとも、予備役・後備役あるいは退役の大中将でもよい、と改めました。これにより、首相は、軍の意向にかかわりなく、現役以外の大中将から任命できるようになり、倒閣運動を回避できます。

 これに対して、海軍は「現役」削除を受け入れましたが、陸軍は、長谷川好道参謀総長らが強く抵抗しました。しかし、原は、これを通さなければ「万事見込みなし」と山本と一緒に反対論を押し切り、13年6月、陸海軍省の官制改正を実現しました。木越の後任は、長州出身でない 楠瀬(くすのせ) 幸彦を引き抜きました。

 なお、現役武官制は、のちの36(昭和11)年、復活します。

 山本はまた、各省部課の統廃合により、1万人に及ぶ人員整理と経費節減の「行政整理」を断行しました。また、内閣の施策に抵抗しがちな枢密院顧問官の定員を28人から24人に減員します。わずか4人とはいえ、山県有朋・枢密院議長の 牙城(がじょう) に斬り込んだわけです。

 また、文官任用令を改正し、内閣書記官長、法制局長官、各省次官、内務省警保局長、警視総監などの役職に自由任用を認めました。これは第2次山県内閣が政党勢力の官界進出を嫌って作った任用規定を緩和し、政党員らの進出を容易にしたものでした。

桂死去と立憲同志会

 こうした山本内閣の施策に、山県や山県系の議員や官僚は、強い反感を抱きます。そもそも、憲政擁護運動に追い詰められた桂太郎に正面から辞職を勧告したのは、山本でした。

 桂は退陣後、立憲同志会の綱領・政策案を発表するなど、 捲土重来(けんどちょうらい) を期し、「もう一度政権をとりたい」と考えていました。しかし、13年4月から病床に伏します。胃がんだったと言われています。

 同志会では5常務制がとられ、常務委員長(筆頭常務)に加藤高明、常務は大浦兼武、大石正巳、河野広中、後藤新平が選ばれました。桂は、自らの後継者は、後藤でなく加藤と考えていました。桂は、自分の後継首相を選考する元老会議でも、その成否とは別に加藤の名を挙げていました。

立憲同志会の結党式で演説する加藤高明
立憲同志会の結党式で演説する加藤高明

 桂は10月10日、死去しました。首相退任から1年もたっていませんでした。山本や原は、桂を国葬にしませんでした。薩長の旧藩主や皇族のほかで国葬とされたのは、三条実美、岩倉具視、伊藤博文だけであり、桂の国葬は不適当と判断しました。(千葉功著『桂太郎』)

 同志会では、後藤が10月末に脱党し、仲小路廉らの同調者が出ました。13年12月23日、立憲同志会の結党式が行われ、加藤高明を総理に、二大政党制・責任内閣制をめざす政党が創立されました。

シーメンス事件

 軍艦購入をめぐる海軍の汚職事件は、14(大正3)年1月、ロンドン発のロイター電によって明るみに出ました。ドイツの重電機メーカー・シーメンス日本支社の一社員が、重要書類を盗み出し、これをネタに同社を恐喝したものの失敗。帰国したあと、恐喝未遂で起訴されました。その書類の中には、同社が受注工作のため、日本の海軍将校に賄賂として金を支払ったことが記されていました。

 海軍は、贈賄容疑を否定しましたが、同月23日、雄弁で知られた島田三郎(立憲同志会)が議会でこの問題を取り上げ、政府を追及しました。憲政擁護会もこの事件で息を吹き返し、「海軍粛正・閥族打破」を叫ぶ一方、新聞などは「海軍ぐるみ」の事件だと書き立てました。

 桂内閣の2個師団増設問題では「陸軍と長州閥」に向けられた攻撃の矛先が、今度は一転して「海軍と薩摩閥」に替わりました。

 2月に入ると、海軍大佐が検挙され、海軍軍法会議にかけられます。野党の同志会、国民党、中正会の3派有志は同月10日、シーメンス事件に関する内閣弾劾決議案を議会に提出しました。

「金剛」
「金剛」

 この日、東京・日比谷公園では、内閣を糾弾する国民大会が開かれていました。議会で決議案が政友会の反対で否決されたことが伝えられると、群衆は騒ぎ出し、議会を包囲して警官隊と激しく衝突しました。警官が抜刀して民衆に斬りつける事件も起きました。

 さらに捜査が進むと、イギリスのヴィッカース社の日本代理店である三井物産の重役が、巡洋戦艦『金剛』を同社に発注させるため、元呉鎮守府司令長官(中将)に賄賂を贈っていた贈収賄事件が発覚しました。これが山本内閣にとって致命的な二の矢になりました。一連の事件で、海軍軍人3人が有罪になります。

山本内閣総辞職

吉野作造の「民衆的示威運動を論ず」
吉野作造の「民衆的示威運動を論ず」

 山本首相は、14年度予算案に多額の海軍拡張費を計上していました。山本内閣弾劾決議案否決後の14年2月12日、衆議院は海軍拡張費のうち3000万円を削除しただけで予算案を可決しました。

 しかし、貴族院は「海軍偏重予算」などとして猛烈な抵抗を繰り広げます。3月13日、貴族院予算委員会は、衆院修正に加えて4000万円を削除することを決めました。貴族院の (でん)健治郎(けんじろう) や平田東助ら山県系の勢力は、山本内閣の倒閣を狙っていました。

 衆参両院の意見の不一致から両院協議会が開かれましたが、結局、予算は成立せず、山本内閣は同月24日、総辞職しました。

 こうして第1次護憲運動とシーメンス事件の民衆運動は、それぞれ政権交代をもたらすことになりました。吉野作造が「民衆的示威運動を論ず」を発表(「中央公論」14年4月号)したのは、ちょうどこの頃のことでした。この論考については<明治から大正へ 第1回「民衆が政治勢力に」>で取り上げました。

日本人移民排斥止まず

 他方、山本内閣を悩ませていたのが、米カリフォルニア州における排日問題の再燃でした。

珍田捨巳(左)とブライアン(右はアメリカ議会図書館蔵)
珍田捨巳(左)とブライアン(右はアメリカ議会図書館蔵)

 アメリカのカリフォルニア州議会で、13(大正2)年5月、外国人土地法が成立しました。同法は、合衆国の市民権を持つことのできない外国人は、同州で土地を所有できず、農業目的の土地の賃借契約は3年以内に限っていました。事実上、日本人の土地所有を禁止し、制限するものでした。

 その「排日土地法」は日本国内の反発を呼び、日本政府は成立前から米側の翻意を求めてきました。しかし、土地法は成立し、 珍田捨巳(ちんだすてみ) ・駐米大使は、この法律は「不当かつ差別的にして正義公道の大本に反する」と、ブライアン米国務長官に強硬な抗議書を提示しました。ブライアンは、これでは州民の激高を招くとして修正を求め、珍田もこれに応じました。

 ところが、米海軍は納得せず、「日本との戦争はもはや回避できない」と、フィリピンへ軍艦を急派する許可を政府に求めました。

 しかし、ウィルソン米大統領は、軍艦の移動を一切禁止する命令を下して沈静化に努め、これにより、一時、米本土に広まった「日米開戦近し」の空気は消え去ります。(簔原俊洋著『アメリカの排日運動と日米関係』)

 パナマ運河が14年8月に開通しました。それ以後、アメリカは、海軍の主力を大西洋から太平洋に移し、アラスカを米艦隊の給炭地として基地化し、ハワイの真珠湾軍港を拡充しました。日米関係は、このカリフォルニア州の外国人土地法制定を転機に、不安定な様相を呈することになりました。(岡義武著『明治政治史(下)』)

中国「第2革命」失敗

  袁世凱(えんせいがい) が最高権力を握った中華民国では、革命の動乱が続いていました。

 13年初頭の国会議員選挙で、革命派の国民党が第1党になりました。同党指導者・宋教仁の暗殺は、自らの権力が奪われることを恐れた袁が放った刺客の仕業でした。

袁世凱の横顔が入った当時の銀貨
袁世凱の横顔が入った当時の銀貨

 袁は、さらに英、独、仏、日、露の5か国から巨額の借款を得て、独裁体制の財政基盤を固め、国民党への弾圧を強めました。

 孫文は、日本の協力を得て袁に辞任を迫ろうとしましたが、日本政府は、列国と一致して袁を支持する方針をとりました。(深町英夫著『孫文』)

 同年6月、袁世凱が国民党系の3人の都督を 罷免(ひめん) すると、江蘇、 安徽(あんき) 、広東、福建、湖南、四川などの各省で、国民党員が「倒袁の兵」を挙げ、独立を宣言しました。辛亥革命に次ぐ「第2革命」です。しかし、袁世凱は、圧倒的な軍事力でこれを鎮圧しました。辛亥革命の再現は果たせませんでした。

 革命派の指導者たちは海外へ逃げ、孫文は13年8月、再び亡命者として東京に到着しました。そこで孫文は、改めて袁世凱政権の打倒を期して「中華革命党」結成に着手します。

 袁の軍隊が南京を占領した際、日本人が殺害されるという「南京事件」が発生します。9月5日には、日本政府の対応が手ぬるいとして外務省政務局長が右翼に刺殺される事件が起きました。

 同月7日、東京・日比谷で対支問題国民大会が開かれ、約3万人が集まって軟弱外交を非難し、尾崎行雄らは激越な中国制裁の演説をしました。散会後、群衆が大挙して外務省などに押し掛けました。

外務省に押し掛けた群衆(1913年9月7日)
外務省に押し掛けた群衆(1913年9月7日)

 袁は同年10月、中華民国大総統に就任し、国民党の解散を命じ、国民党籍をもつ議員の資格を奪ったため、国会も機能を停止します。そのうえで、袁は14年5月、大総統の権限を大幅に拡大した「新約法」を制定しました。孫文らが主権在民や基本的人権をうたって制定した「臨時約法」(暫定憲法)は事実上、 反故(ほご) にされました。

【主な参考・引用文献】
▽岡義武『明治政治史(下)』(岩波文庫)▽山本四郎『評伝原敬(下)』(東京創元社)▽同『日本政党史(下)』(教育社歴史新書)▽有馬学『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本』(中公文庫)▽千葉功『桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義』(中公新書)▽百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本―制度と実態』(伊藤隆監修、吉川弘文館)▽簔原俊洋『アメリカの排日運動と日米関係―「排日移民法」はなぜ成立したか』(朝日新聞出版)▽櫻井良樹『日本近代の歴史4 国際化時代「大正日本」』(吉川弘文館)▽武田晴人『日本の歴史19 帝国主義と民本主義』(集英社)▽小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』(岩波新書)▽深町英夫『孫文―近代化の岐路』(同)▽岡本隆司『袁世凱―現代中国の出発』(同)

 (本文中、出典のない写真は国立国会図書館蔵)

プロフィル
浅海 伸夫( あさうみ・のぶお
 1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。

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2183263 0 「世界と日本」史 2021/07/07 05:20:00 2021/07/07 05:20:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210630-OYT8I50041-T.jpg?type=thumbnail

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