戦後75年に考える シベリア抑留の悲劇はなぜ起きたのか

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調査研究本部 丸山淳一

日本武道館で行われた全国戦没者追悼式。間隔が空けられた椅子に座る遺族ら(15日)
日本武道館で行われた全国戦没者追悼式。間隔が空けられた椅子に座る遺族ら(15日)

 終戦から75年となる8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。天皇陛下はお言葉で、新型コロナウイルスを世界の平和を脅かす「新たな苦難」ととらえ、皆で手を携えて乗り越えることを願われた。コロナ禍で式典に参列できなかった遺族の心境に配慮されたのだろう。戦没者追悼式で今の社会の課題に言及したお言葉は初めてだという。

新宿御苑で開かれた第1回戦没者追悼式(1952年)
新宿御苑で開かれた第1回戦没者追悼式(1952年)

 「終戦の日」や戦没者追悼式は時代の要請を取り入れて、これまでも変わり続けてきた。8月15日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定で定められたのは昭和57年(1982年)になってから。全国戦没者追悼式は、その19年前の昭和38年(1963年)から毎年8月15日に行われていたが、1回目は昭和27年(1952年)5月2日、サンフランシスコ平和条約の発効と日本国憲法施行5周年を祝う記念式典の前日に、新宿御苑(東京都)で行われている。

 そもそも「終戦の日」は第二次世界大戦の戦闘が () んだ日ではない。8月9日に満州(中国東北部)に攻め込み対日参戦したソ連軍は15日以降も軍事行動を止めず、18日未明には千島列島の北端、 占守(しゅむしゅ) 島で上陸作戦を始め、日本軍守備隊と「開戦」している。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)は占守島から南下し、北海道の北半分を占領する計画だった。大本営は18日までに日本軍の武装解除を命じていたが、陸軍中将・樋口季一郎(1888~1970)は独断で「断乎反撃せよ」と命じた。

「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令

捕虜50万人移送の極秘命令の全文入手を伝える読売新聞紙面(1992年6月3日朝刊)
捕虜50万人移送の極秘命令の全文入手を伝える読売新聞紙面(1992年6月3日朝刊)

 守備隊の奮戦で 出端(ではな)(くじ) かれたスターリンが、北海道占領を断念せざるを得なくなった経緯は以前に紹介した( 「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 )。占守島では8月21日に停戦協定が成立し、日本兵は23日に武装解除するが、苦難はまだ終わらなかった。スターリンはこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出したからだ。

 この命令によって、千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行された。その1割にあたる約5万4000人が、過酷な労働や食糧不足で死亡したとされる。シベリアへの抑留は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反する。終戦後に拘束された身柄は捕虜ですらない。

 対日参戦の裏には、昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談で米英とソ連が結んだ密約があり、スターリンはそれ以前から日露戦争や日本のシベリア出兵への“報復”を考えていたとされるが、スターリンが国際的な犯罪を強行できた一因に、日本政府が終戦のために進めようとした和平交渉の影響をあげる説がある。読売新聞が政治家や官僚、軍人など延べ1万人の協力を得て、昭和42年(1967年)から約9年にわたって連載した「昭和史の天皇」の取材テープから、内大臣の木戸幸一(1889~1977)の証言などをもとに、8月15日までの動きを振り返ってみよう。

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1417910 0 今につながる日本史 2020/08/19 10:00:00 2022/04/06 11:11:48 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200818-OYT8I50011-T.jpg?type=thumbnail

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