洛中洛外図屏風 解き明かされた発注者の「政権構想」

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調査研究本部 丸山淳一

特別展「桃山―天下人の100年」で上杉本に見入る人たち(東京国立博物館で)
特別展「桃山―天下人の100年」で上杉本に見入る人たち(東京国立博物館で)

 金の雲間からのぞくランドマーク(有名な建造物)は名前が記されたものだけで235か所、六曲一双の街並みに描かれた老若男女は2485人にのぼる。京都市中(洛中)と郊外(洛外)のパノラマ景観を描いた洛中(らくちゅう)洛外図(らくがいず)屏風(びょうぶ)の中でも最高傑作とされる「上杉本洛中洛外図屏風」(国宝、米沢市上杉博物館所蔵)が、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」に出品されている。

 「上杉本」は70点を超える洛中洛外図屏風のなかでも初期の作品で、狩野永徳(かのうえいとく)(1543~90)」が描き、天正2年(1574年)に織田信長(1534~82)が上杉謙信(1530~78)に贈ったとされる。作者は桃山時代を代表する天才絵師の永徳、しかも信長、謙信という戦国のビッグネームも絡む絵となれば、研究者が放っておくわけがない。多くの学者が屏風を隅々まで調べ、描かれた背景や、秘められた政治的なメッセージについて考察し、歴史学者の大論争も起きている。その結果明らかになったのは、絵に隠されていた意外な新事実だった。

通説をことごとく否定した今谷説、大論争を巻き起こす

洛中洛外図屏風(左隻、米沢市上杉博物館所蔵)
洛中洛外図屏風(左隻、米沢市上杉博物館所蔵)

洛中洛外図屏風(右隻、米沢市上杉博物館所蔵)
洛中洛外図屏風(右隻、米沢市上杉博物館所蔵)

 歴史学者の大論争は、元大蔵官僚という経歴を持つ異色の歴史学者、今谷明さんが昭和59年(1984年)に発表した新説から始まった。

 「描かれたランドマークの建築・改築時期をすべて調べた結果、屏風が描く京都の景観は、天文16年(1547年)7月19日から(うるう)7月5日までの16日間のものだった。屏風の作者はこの16日間に弟子を洛中洛外に走らせ、ランドマークをスケッチさせて屏風を描いたのだ」

永徳の壺印(狩野永納『本朝画史5 画印』国立国会図書館蔵)
永徳の壺印(狩野永納『本朝画史5 画印』国立国会図書館蔵)

 これまでの通説をことごとく否定する新説に、多くの歴史学者が面食らった。今谷説に従えば、屏風の中の京都は天文16年の写実画であり、信長から謙信への政治的なメッセージが入り込む余地はなくなる。そもそも天文16年には信長は13歳、永徳にいたってはまだ4歳だ。今谷説は、「二か所に押されている永徳の(つぼ)印は不鮮明で判読できない」「信長が謙信に屏風を贈ったと記す史料は信用できない」というのだ。

 歴史学会は一斉に今谷説への反論を試みた。しかし、屏風に描かれた京都のランドマークの中には今谷説の通り、信長が謙信に屏風を贈ったころにはすでに取り壊されていたものも多かった。「描かれた時点になかった建造物も過去の記録をもとに描くことはできる。景観から制作時期の下限を絞り込むことはできない」という反論が出されたが、それでは今谷説は否定できない。制作時期の上限を絞り込んで矛盾を明らかにすること、つまり屏風の中から「天文16年にはまだなかった建造物」を見つけ出すことが必要だった。

当時ないものがある…発見された三つの矛盾

三好義興邸の冠木門(左隻3扇、米沢市上杉博物館所蔵)
三好義興邸の冠木門(左隻3扇、米沢市上杉博物館所蔵)

 武蔵大学名誉教授の瀬田勝哉さんは、今谷説の“間違い探し”に挑み、三つの矛盾を発見した。一つ目は、左隻3扇(向かって左側の屏風の右から3枚目の扇)に描かれた「三好義興(よしおき)(1542~63)邸」の冠木門(かぶきもん)だ。この門は永禄4年(1561年)3月に時の将軍、足利義輝(1536~65)が義興邸を訪問(御成(おなり))する際に設けられたという確実な記録があり、天文16年には存在していない。

 二つ目は、左隻2扇にある松永久秀(1510?~77)邸の門前に準備された左義長(さぎちょう)の竹だ。左義長は小正月に正月の飾り物を焼く「どんど焼き」の原型とされる宮中行事で、燃やす竹の大部分は京都郊外の山科(やましな)から宮中に納められていた。ところが天文18年(1549年)に山科七郷が久秀の弟、松永長頼(?~1565)の領地になると、宮中への竹の納品は止まり、宮中での左義長は大幅に縮小されたという。

松永久秀邸(左隻2扇、米沢市上杉博物館所蔵)
松永久秀邸(左隻2扇、米沢市上杉博物館所蔵)
松永久秀(『太平記英勇伝』)
松永久秀(『太平記英勇伝』)

 屏風の中ではその左義長が、大きな松の木がある久秀邸の門前で大規模に行われている。竹は長頼が納めたのだろう。三好家の家臣に過ぎなかった久秀が立派な屋敷に住み、宮中に代わって左義長を行えるようになったのは、天文18年以降しかあり得ない。

妙顕寺(右隻5扇、米沢市上杉博物館所蔵)
妙顕寺(右隻5扇、米沢市上杉博物館所蔵)

 三つ目は右隻5扇に描かれている「めうけんじ(妙顕寺)」だ。妙顕寺は法華宗の寺だが、法華宗は天文5年(1536年)に比叡山延暦寺との戦いに敗れて京都を追放(天文法華の乱)され、寺の名も「法花寺」に変わっている。天文16年の京都に「妙顕寺」は存在していないのだ。

 今谷説で不鮮明とされた永徳の落款は、やはり永徳のものと判定され、東京大学名誉教授の黒田日出男さんの調査で、「天正2年に謙信が信長から『花洛尽』(洛中洛外)の屏風を贈られた」と記した新たな史料も見つかった。その史料には「画工の名は狩野永徳斎、永禄8年9月3日にこれを()く」という記述もあった。今谷説は完全に否定された。

ほかの洛中洛外図にはない三つの特徴

 だが、謎は逆に深まった。屏風は永禄8年(1565年)9月3日に完成したのだから、永徳に発注されたのはそれより前になる。信長はまだ美濃(岐阜県)攻略のさなかで、屏風の発注者とは考えにくい。屏風を発注した人物は誰で、その人物はなぜ異なる時期のランドマークを同じ屏風に描かせたのか。新たな謎解きが始まった。

 その結果、上杉本には、ほかの初期洛中洛外図にはない三つの特徴があることがわかってきた。一つ目は「右隻から左隻に春夏秋冬の景色を整然と描く」という洛中洛外図の“定型”を無視して、左隻の将軍御所を取り囲むように初春の華やかな光景を描いていること。二つ目は、左隻の中心となる「公方(くぼう)様」(将軍御所)に向かって、輿(こし)に乗った貴人の大行列が描かれていること。輿に乗るのは幕府ナンバー2の管領(かんれい)クラスの大物と推定された。そして三つ目は、墨書きで名前を記している235のランドマークのうち、右隻5~6扇の「内裏様」(朝廷)関連施設の書き込みが際立って多いことだ。

公方邸(左)に向かう貴人の行列(左隻3~4扇、米沢市上杉博物館所蔵)
公方邸(左)に向かう貴人の行列(左隻3~4扇、米沢市上杉博物館所蔵)
足利義輝(国立歴史民俗博物館蔵)
足利義輝(国立歴史民俗博物館蔵)

 三つの特徴は、永徳が発注者の要望に応えて描き込んだとみるのが自然だ。つまり、発注者は将軍御所の華やかな姿をPRし、管領クラスの大物が御所に参じることを期待していた。京都の貴人には言わずもがなの内裏関連施設の位置や名前が詳細に書き込まれたのは、内裏に関心があるが、その配置をよく知らない地方の大名に贈答するためと推測できる。絵が完成した永禄8年という時期も考慮すると、屏風を発注したのは将軍義輝、贈り先は謙信という答えにたどり着く。

自らの「政権構想」? 義輝が屏風に込めた思い

上杉謙信(米沢市上杉博物館所蔵)
上杉謙信(米沢市上杉博物館所蔵)

 13代将軍義輝は当時、三好、松永と表面上は同盟関係にあったが、将軍の権威回復のため、謙信の後ろ盾を望んでいた。謙信は過去に2度上洛して天皇に拝謁し、永禄4年(1561年)には関東管領に就任し、義輝から「輝」の字を賜って上杉輝虎と名乗っている。義輝と義兄弟の関係にある関白の近衛前久(さきひさ)(1536~1612)と謙信との固い絆は大河ドラマ『麒麟がくる』(10月25日放送)でも紹介された。

 こうした分析を踏まえて屏風全体を見ると、屏風が描く異なる時代のランドマークは、一時代前の政治体制と三好、松永の新興勢力が入り交じっている当時の政治体制を描いていることがわかる。義輝は屏風の中に、「その体制に謙信が加わることで、将軍御所は(にぎ)やかに初春を祝う『花の御所』になる」という自身の「政権構想」の完成形を込めたのではないか。つまり、御輿(みこし)に乗る貴人は謙信その人ということになる。

闘鶏を見る若君(右隻6扇、米沢市上杉博物館所蔵)
闘鶏を見る若君(右隻6扇、米沢市上杉博物館所蔵)

 謙信だけではない。右隻6扇では、管領家の斯波(しば)氏邸宅跡で、幼い子どもを中心に大勢の武士が闘鶏をしているが、瀬田さんは、この若君は天文15年(1546年)に元服して将軍職を継いだ義輝その人だ、とみる。闘鶏は当時、皇室や将軍家の幼い後継者の安泰を祈願する行事とされていた。義輝が幼い自分の姿を描くよう要望したとは考えにくい。永徳が発注主の無事を祈って仕込んだ「隠しキャラ」かもしれない。

謙信に絵を贈った信長の意図は?

 だが、義輝の地位は安泰とはいかなかった。屏風が完成する102日前の永禄8年5月19日、義輝は三好、松永の軍勢に御所を襲われて暗殺された。できあがった屏風は納入先を失い、信長が謙信への贈答用に買い上げるまで、どこかでひっそり眠っていたとみられる。信長が謙信に絵を贈った天正2年当時、2人は同盟関係にあったが、協力して武田勢を攻める作戦がうまくいかず、ぎくしゃくしていた。永徳は関係修復のための贈り物を探していた信長に在庫になっていた屏風を売り込み、屏風は歴史の表舞台に復帰した。

 おそらく永徳は、屏風に義輝が込めたメッセージについて信長に話したのだろうが、それを聞いた信長がどう考えたのかはわからない。「謙信の機嫌を直すにはちょうどいい」と考えただけかもしれないが、「武田勢の牽制(けんせい)のため謙信との同盟は保ちたいが、謙信に上洛されてはたまらない」というのが本音だったはずだ。東京国立博物館学芸企画部長の田沢裕賀(ひろよし)さんは、「信長は屏風に『あなたが上洛しなくても京都は繁栄している。ご心配なく京都は私にお任せください』、というメッセージを込めた可能性もあるのでは」と話す。

 最近も「絵の発注者は義輝ではない」「輿に乗っているのは謙信ではない」といった新説が発表され、上杉本をめぐる論争は今も続いている。諸説あることも踏まえて桃山文化の傑作を隅々まで眺め、思いを巡らす芸術の秋はいかがだろう。場所は東京・上野公園の東京国立博物館の平成館。初めての人もスマホがあれば、Google(グーグル)マップのAR(拡張現実)道案内機能を使えば迷わずにたどり着けるだろう。今月から「ライブビュー」にはランドマークの表示機能が追加された。新機能にグーグルの意図が隠されているのかどうかは、よくわからないが。

主要参考文献
瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』(1994、平凡社)
黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』(1996、岩波新書)
『特別展 桃山―天下人の100年』図録(2020、東京国立博物館、読売新聞社)

 室町時代末期から江戸時代初期までの、豪壮・華麗な桃山美術の優品が一堂に会する特別展「桃山―天下人の100年」(読売新聞社など主催)は11月29日まで開催中です。狩野永徳筆の洛中洛外図屏風「上杉本」は前期展示(11月1日まで)。後期(11月3日~29日)は二条城を華麗に描いた「勝興寺本」などが展示される予定。入場は事前予約制。くわしくはこちら

プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち
 読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。

無断転載・複製を禁じます
1582027 0 今につながる日本史 2020/10/28 05:00:00 2020/10/29 09:44:43 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/10/20201026-OYT8I50045-T.jpg?type=thumbnail

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