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「歳忘れ」から「年忘れ」へ…600年生き続けてきた忘年会

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調査研究本部 丸山淳一

 新型コロナは年末になって感染拡大の第3波が襲来し、東京都の小池知事が「年末年始コロナ特別警報」を出して、忘年会や新年会を自粛し、帰省を控えるよう呼びかけた。Go To トラベルキャンペーンは一時停止され、飲食店の営業時間短縮も要請された。信用調査会社の東京商工リサーチが約1万社に行った調査によると、約9割の企業が忘年会や新年会を開催しないという。大きな宴会や立食パーティーはもちろん、同期などとの小規模な忘年会や、部署での納会についても禁止する会社が多い。

臨時の記者会見を開き、「年末年始コロナ特別警報」を発令した東京都の小池知事(12月17日)
臨時の記者会見を開き、「年末年始コロナ特別警報」を発令した東京都の小池知事(12月17日)

 最後までコロナ禍に振り回された今年こそ、忘年会でも開いて「年忘れ」をしたいところだが、大勢での飲食はマスクを外し、「密」の中で互いに大声になりがちだ。感染拡大を防ぐにはやむを得まい。約100年前のスペイン・インフルエンザ大流行の時は忘年会や納会まで警戒は及ばなかったようで、大正8年(1919年)12月から始まったとされる第3波の流行を抑えることができなかった。

インフル流行下、約100年前に強行された学者の納会

帝国学士院の納会の模様を伝える大正8年(1919年)12月15日の読売新聞
帝国学士院の納会の模様を伝える大正8年(1919年)12月15日の読売新聞

 端的な例は、帝国学士院(現在の日本学士院)の納会だ。インフルエンザで欠席が相次いだが、会員の予備選考を行った定例会の後、場所を替えて会食と懇談が行われている。この模様を記した読売新聞の記事(19年12月15日付)によると、発熱して早退する学者が出て、会場は参加者の(せき)やくしゃみでにぎわったという。さすがに乱痴気(らんちき)騒ぎの忘年会ではなかったが、「呼吸保護器(マスク)をせずに人の集まる場所に行くな」という呼びかけは当時も行われていた。納会は、当時の日本の「学者の(すい)」たちが感染リスクを踏まえても、やめるべきではなかったのだろう。

奠都(てんと)30年祝賀会の絵。当時は同様の西洋風の宴席が盛んに開かれた(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)
奠都(てんと)30年祝賀会の絵。当時は同様の西洋風の宴席が盛んに開かれた(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

 社会学者の園田英弘(1947~2007)は著書『忘年会』のなかで、組織的に大人数で年忘れを行う忘年会を「近代忘年会」と名付け、その起源を明治中期と分析している。身分制が解体され、社会が流動化して一獲千金の商機や才能に応じた抜擢(ばってき)の道が開かれた。旧大名は文明開化に後れを取るまいと社交や接待の場を増やし、薩長藩閥の要人は自らの権勢を示すために派手な会合を開きたがった。庶民も自分が属する集団(会社など)内部の人脈を広げ、外部の人脈を開拓しようとした。

 職業や地位にかかわらず、「年忘れ」は集会や交遊の場を設ける絶好の名目になり、西洋のパーティーの要素も取り入れつつ、官民を問わず急速に普及した。

明治半ばには定着、時の首相の自粛令も効果なし

黒田清隆(国立国会図書館蔵)
黒田清隆(国立国会図書館蔵)

 明治21年(1888年)の年末には、時の首相、黒田清隆(1840~1900)が、各省庁に、忘年会はできるだけ質素にするよう訓示している。公費で温泉や料理屋に繰り出す公用忘年会に批判が出たためだが、その黒田自身が首相官邸に大臣や要人を招いて忘年会を開いているくらいだから、訓示の効果は推して知るべし。夏目漱石(1867~1916)が明治38年(1905年)に発表した『吾輩は猫である』には、注釈もなく忘年会という言葉が出てくるから、このころは庶民にも広く定着していたのだろう。

江戸時代前期までは「一年を無事に過ごせた祝いの会」

建部綾足(『寒葉斎建部綾足』国立国会図書館蔵)
建部綾足(『寒葉斎建部綾足』国立国会図書館蔵)

 園田によると、「忘年会」という言葉が文献で初めて確認できるのは、江戸時代後期の国学者の建部(たけべ)綾足(あやたり)(1719~74)の『古今物忘れ』だという。このなかで、忘年会は「うき(()き)一年」を忘れるための会合と紹介されているが、建部は、これは本来の意味とは異なると嘆いている。「憂きこと」は「忠孝をつくすべき君主や親が(とし)をとり、老いていくこと」だったのに、いつしか「自分がこの一年に経験したいやなこと」に変わってしまった、というのだ。

 確かに、宋代に書かれた『荘子』に登場する「忘年」は、「年齢の差を忘れるほど親しく付き合う」という意味で、もともと「年忘」には「歳忘」の字があてられていた。忘れるのは「過ぎゆく1年」ではなく、「自分の年齢」だったわけだ。

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1720477 0 今につながる日本史 2020/12/23 10:00:00 2021/01/01 10:47:07 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/12/20201222-OYT8I50007-T.jpg?type=thumbnail

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