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震災10年…和歌に詠まれた「末の松山」と消えた災禍の記憶

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調査研究本部 丸山淳一

 東日本大震災から、10年がたつ。震災を招いた東北地方太平洋沖地震のマグニチュード(M)は9.0と、日本で近代的な地震観測が始まってから最大の規模だった。東北地方の太平洋岸は有史以来、たびたび地震と津波に襲われてきたが、東北地方太平洋沖地震に匹敵する超巨大地震となると、貞観(じょうがん)11年(869年)5月26日夜に発生した貞観地震まで遡るとみられている。

「原野も道もすべて海に」…貞観地震

『日本三代実録』の貞観地震の記録。「陸奥国の地大いに震動」「人民伏して起きること能わず」とある(国立公文書館蔵)
『日本三代実録』の貞観地震の記録。「陸奥国の地大いに震動」「人民伏して起きること能わず」とある(国立公文書館蔵)
多賀城政庁跡。貞観津波でほぼ水没したとみられる
多賀城政庁跡。貞観津波でほぼ水没したとみられる

 貞観地震を記録した『日本三代実録』には、「陸奥(むつ)国は大いに震動し、人々は伏して起き上がることもできなかった。激しい波と高潮がたちまち城下に襲来し、海を離れること数十百里まで、原野も道もすべて海となって千人ほどが溺死(できし)した」とある。「城下」とは陸奥国(現在の青森、岩手、宮城、福島各県と秋田県の一部)の国府、多賀城(現・宮城県多賀城市)を指すとみられる。

 「数十百里」は約50キロ(当時の1里は約550メートル)にも達し、仙台平野の奥行きを上回るが、多賀城の高台からみると、仙台平野が海との境がわからないほど水没したということだろう。仙台平野や石巻平野では、この時の津波によるとされる砂の層が海岸から3~4キロも内陸に堆積していることが確認された。海岸線の位置は当時とは異なるものの、浸水域は東日本大震災の津波とほぼ共通している。この研究成果は東日本大震災の3年前には指摘され、政府の地震調査研究推進本部は2011年4月に研究成果を長期評価に反映させる予定だったが、東日本大震災はその直前に起きてしまった。

関東大震災“予知”した学者の指摘

今村明恒(『地文鉱物叢話』国立国会図書館蔵)
今村明恒(『地文鉱物叢話』国立国会図書館蔵)

 貞観地震の前後には日本各地で地震や火山の噴火が相次ぎ、貞観地震の9年後には南関東で元慶(がんぎょう)関東地震があり、18年後には南海トラフで仁和地震があった。地震学者で大正12年(1923年)の関東大震災を“予知”したことで知られる今村明恒(あきつね)(1870~1948)は、日本列島の地震には「旺盛期」があり、過去の旺盛期は必ず三陸沖の地下大活動に代表されると指摘し、「日本に対して働きつつあった一勢力」が貞観地震を起こし、それが「日本の地震活動の全系統を一巡させた」という仮説を示している。

 東京大学名誉教授の保立道久(ほたてみちひさ)さんは、『歴史のなかの大地動乱』で今村の仮説を紹介し、今村のいう「一勢力」とは「現在でいえば太平洋プレートの沈み込みということだろう」と記している。旺盛期の中心には常に三陸沖の地震があり、それが他のプレートにも作用して、南関東、南海トラフの巨大地震や火山の噴火が連動して起きるというのだ。今村の仮説通りなら、東日本大震災で日本は約1200年ぶりに地震の旺盛期に入った可能性があるわけだが、最近の研究では、日本の地下の動きは、そう単純ではないこともわかってきた。

 この点については貞観地震の調査も手掛けた産業技術総合研究所の研究者の詳しい論考(こちら)を公開したので、あわせてお読みいただきたい。現時点では今村の仮説が正しいかどうかはわからないが、いずれ巨大地震が来ることは間違いない。今村が最も訴えたかったのは、「いつ巨大地震が来るか」ではなく、「過去の地震を教訓に、必ず来る巨大地震に備えなければならない」ということだろう。そのためには、過去の地震の記憶を風化させてはならない。

 だが、悲しいかな、人間は忘れる生き物だ。超巨大地震だった貞観地震の記憶も、その例外ではなかった。

決して津波が届かない「末の松山」、好んで和歌に

宝国寺の裏山にある末の松山。東日本大震災の津波はここまでは来なかった
宝国寺の裏山にある末の松山。東日本大震災の津波はここまでは来なかった

 貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府の多賀城にある宝国寺の裏山、「末の松山」(多賀城市八幡)には届かなかった。ちなみに、東日本大震災でも周辺の市街地は2メートルも浸水し、末の松山に避難した人は無事だった。末の松山は、「決して波が越えることがない地」として有名になり、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。

 そのうち最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた清原元輔(きよはらのもとすけ)(908~990)が詠んだ『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』にある歌だろう。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
 (私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらい()らして、末の松山を波が越えることはないのと同じように)

清原元輔(『宣房本三十六歌仙絵』国立文化財機構所蔵品統合検索システム〈https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12346?locale=ja〉を加工して作成)
清原元輔(『宣房本三十六歌仙絵』国立文化財機構所蔵品統合検索システム〈https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12346?locale=ja〉を加工して作成)

 約束を破って心変わりした女性を責める失恋の歌を、ふられた男性の代わりに元輔が詠んでいる。元輔は清少納言(966?~1025?)の父で、三十六歌仙のひとり。『枕草子』の作者である清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」と和歌を詠むのを遠慮したことがあるほど高名な歌人だったから、和歌の注文もあったのだろう。

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1897616 0 今につながる日本史 2021/03/10 10:00:00 2021/03/10 11:43:14 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/03/20210308-OYT8I50028-T.jpg?type=thumbnail

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