震災10年…和歌に詠まれた「末の松山」と消えた災禍の記憶
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東日本大震災から、10年がたつ。震災を招いた東北地方太平洋沖地震のマグニチュード(M)は9.0と、日本で近代的な地震観測が始まってから最大の規模だった。東北地方の太平洋岸は有史以来、たびたび地震と津波に襲われてきたが、東北地方太平洋沖地震に匹敵する超巨大地震となると、
「原野も道もすべて海に」…貞観地震


貞観地震を記録した『日本三代実録』には、「
「数十百里」は約50キロ(当時の1里は約550メートル)にも達し、仙台平野の奥行きを上回るが、多賀城の高台からみると、仙台平野が海との境がわからないほど水没したということだろう。仙台平野や石巻平野では、この時の津波によるとされる砂の層が海岸から3~4キロも内陸に堆積していることが確認された。海岸線の位置は当時とは異なるものの、浸水域は東日本大震災の津波とほぼ共通している。この研究成果は東日本大震災の3年前には指摘され、政府の地震調査研究推進本部は2011年4月に研究成果を長期評価に反映させる予定だったが、東日本大震災はその直前に起きてしまった。
関東大震災“予知”した学者の指摘


貞観地震の前後には日本各地で地震や火山の噴火が相次ぎ、貞観地震の9年後には南関東で
東京大学名誉教授の

この点については貞観地震の調査も手掛けた産業技術総合研究所の研究者の詳しい論考(こちら)を公開したので、あわせてお読みいただきたい。現時点では今村の仮説が正しいかどうかはわからないが、いずれ巨大地震が来ることは間違いない。今村が最も訴えたかったのは、「いつ巨大地震が来るか」ではなく、「過去の地震を教訓に、必ず来る巨大地震に備えなければならない」ということだろう。そのためには、過去の地震の記憶を風化させてはならない。
だが、悲しいかな、人間は忘れる生き物だ。超巨大地震だった貞観地震の記憶も、その例外ではなかった。
決して津波が届かない「末の松山」、好んで和歌に

貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府の多賀城にある宝国寺の裏山、「末の松山」(多賀城市八幡)には届かなかった。ちなみに、東日本大震災でも周辺の市街地は2メートルも浸水し、末の松山に避難した人は無事だった。末の松山は、「決して波が越えることがない地」として有名になり、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。
そのうち最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた
契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
(私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらい

約束を破って心変わりした女性を責める失恋の歌を、ふられた男性の代わりに元輔が詠んでいる。元輔は清少納言(966?~1025?)の父で、三十六歌仙のひとり。『枕草子』の作者である清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」と和歌を詠むのを遠慮したことがあるほど高名な歌人だったから、和歌の注文もあったのだろう。