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新型コロナワクチンの接種が進んでいる。2月の医療従事者への接種開始に続いて、4月からは高齢者に対する接種が始まる。国民の7割以上が免疫を持てばコロナ禍は終息するとされるが、副反応を心配して接種を拒む人もいるようだ。今後はワクチンの必要数確保とともに、接種率をどう引き上げるかも課題になってくるだろう。
天皇や将軍の命も奪った天然痘…人類が撲滅できた唯一の感染症

天然痘は、人類がワクチンを武器に撲滅に成功したただ一つの感染症で、天然痘ワクチンは人類が初めて手にしたワクチンでもある。免疫がないと、かかった人の25~40%が死に至る。日本でも有史以来、たびたび大流行し、奈良時代には国政を牛耳っていた藤原四兄弟が全員死亡し、戦国時代には伊達政宗(1567~1636)が右目を失明した。江戸時代には15人の徳川将軍のうち5人がかかり、5代将軍綱吉(1646~1709)の命を奪っている。孝明天皇(1831~67)の死因も天然痘とされる。
だが、1796年にイギリスでエドワード・ジェンナー(1749~1823)が雌牛からとった

ワクチンが登場した時はまだ鎖国をしていて、欧米人を野蛮とみていた日本で普及が遅れたのも無理はない。だが、日本でワクチン接種が本格化したのは嘉永2年(1849年)のことで、開国の5年前、明治維新より20年近く前だった。欧米でさえ進まなかったワクチン接種を鎖国中に進めたのは、緒方洪庵(1810~63)を中心とする民間蘭学者のネットワークだった。
「かさぶたを鼻から吸う」日本初のワクチン接種

天然痘にかかると有効な治療法はないが、死を免れると二度かかることはほとんどないことは古くから知られていた。寛政2年(1790年)には秋月藩(福岡県)の藩医、緒方
ジェンナーの牛痘ワクチンはほとんど無毒なのに対し、人のウイルス(人痘)を使う春朔の方法は危険だったが、「免疫を得ればかからずにすむ」という考え方は正しかった。のちに牛痘を普及させる洪庵も、牛痘を手に入れるまで人痘を使っている。免疫の有効性を実証した点で、春朔の挑戦は、その後の早期のワクチン普及を後押ししたといえる。
ジェンナーのワクチンに関する情報が日本にもたらされた時期も、意外に早かった。享和2年(1802年)、長崎で通訳をしていた馬場佐十郎(1787~1822)が、オランダ長崎商館でジェンナーのワクチン開発のニュースを聞いている。ジェンナーがワクチンに関する最初の論文を出してから4年後のことで、イギリス王立協会すらその重要性がわからずに論文を受け付けなかったのだが、馬場はその重要性をすぐに理解し、追加の情報とワクチンの種がもたらされるのを心待ちにしたという。

しかし、肝心のワクチンの種(牛痘の痘苗)は長崎に届かなかった。欧州から船で数か月かけて運ばれるうちに痘苗は効力をなくしてしまうのだ。長崎にオランダ商館医として赴任したシーボルト(1796~1866)も文政6年(1823年)、オランダから持ち込んだ痘苗を使って接種を試みて失敗しているくらいだから、ワクチンは温度変化などに弱かったのだろう。