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コロナの恐怖に直面する今、試される為政者のモラル

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調査研究本部 丸山淳一

 コロナ禍が一向に収まらない。5月23日の時点で東京、大阪、北海道など10都道府県に緊急事態宣言が出され、重症者数も高止まりしている。後から対象に追加された沖縄県を除く9都道府県は、5月末の期限がさらに延長される可能性もある。菅首相は7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせる方針だが、ワクチン供給の遅れや予約システムの不備などの不手際が相次ぎ、内閣支持率は低迷が続いている。

大規模接種が始まり、新型コロナウイルスワクチンの接種を受ける高齢者(5月24日、東京都千代田区で)
大規模接種が始まり、新型コロナウイルスワクチンの接種を受ける高齢者(5月24日、東京都千代田区で)

 国会議員がパーティーを開いたり、夜の会合に出席したりした事実が発覚するたびに「自粛をお願いしておきながら、なぜ自分は守らないのか」という批判の声が上がる。いくつかの自治体では、首長が余ったワクチンを“優先接種”していたことも問題になった。いずれも国民に自粛を求め、ワクチンを行き渡らせることを最優先すべき立場にいる人が、自粛を迫られ、ワクチン接種を望む国民のことを本当に最優先に考えているのかどうか、「統治者としてのモラル」が問われているのだろう。

 過去の感染症の大流行で、対策の陣頭指揮に立った為政者はどのように動いたのか。特に注目したいのは、自身や親族が感染症にかかった統治者の行動だ。自ら感染症の恐怖に直面した時こそ、為政者のモラルが試されると思うからだ。

麻疹と赤痢…死を悟り、出家した執権時頼のその後

鉢の木の逸話。木を折る主人を時頼(右)が見つめる(『芳年武者无類』相模守北条最明寺入道時頼 国立国会図書館蔵)
鉢の木の逸話。木を折る主人を時頼(右)が見つめる(『芳年武者无類』相模守北条最明寺入道時頼 国立国会図書館蔵)

 鎌倉幕府の第5代執権、北条時頼(1227~63)は建長8年(1256年)、麻疹(はしか)と赤痢にかかっている。一時は陰陽師(おんみょうじ)が死者をよみがえらせる秘術を施す「泰山府君祭(たいざんふくんさい)」まで行われるほど重篤な状況に陥った。当時、麻疹は赤斑瘡(あかもがさ)と呼ばれ、感染力が強力で致死率が高い深刻な病だった。建長8年の大流行では後深草天皇(1243~1304)や幕府6代将軍宗尊(むねたか)親王(1242~74)も罹患(りかん)し、災いを払う願いを込めて「建長」から「康元」への改元(災異改元という)まで行われた。

台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎 『前賢故実』国立国会図書館蔵)
台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎 『前賢故実』国立国会図書館蔵)

 死を悟った時頼は、執権職や邸宅を義兄に譲って、その翌日に出家している。感染症対策を指揮できないと考え、厄を背負い込むつもりだったのだろう。だが、出家後に病は癒えた。回復した時頼は、粗末な格好に身をやつして諸国を遍歴し、民の救済に努めたという「廻国(かいこく)伝説」がある。まるで水戸黄門のような話だが、「いざ鎌倉」の語源となった能の演目「鉢木(はちのき)」の話は特に有名だ。

 廻国遍歴の途中、上野(こうずけ)(群馬県)の佐野で大雪にあって立ち往生した時頼は民家に泊めてもらう。家の主人は僧が時頼とは知らぬまま、(まき)が尽きると大切にしていた梅と桜と松の鉢の木を火にくべて時頼をもてなす。主人は「今は領地を横領されて落ちぶれているが、鎌倉で事変があれば誰より先に駆けつける」と語る。後に時頼は関東八州の武士に召集をかけ、約束通り鎌倉に駆け付けた主人の領地を回復させた上に、3本の鉢植えにちなんで加賀国(石川県)梅田庄、越中国(富山県)桜井庄、上野国松井田庄に新たな領地を与えたという。

「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」

麻疹鬼(『麻疹御伽双紙』京都大学附属図書館所蔵)
麻疹鬼(『麻疹御伽双紙』京都大学附属図書館所蔵)

 時頼は北条氏に敵対する三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)など北条本家の勢力拡大に努め、病で執権を退いてからも幕府の実権を握り続けて本家の当主(得宗)の専制政治を始めたとされる。麻疹や赤痢への感染も出家の口実に過ぎないという見方もあり、諸国遍歴も実際にはしていないとみられる。

 にもかかわらずこんな美談が残っているのは、時頼が建長5年(1253年)に「撫民(ぶみん)令」を出して民をいたわれと命じたのを手始めに、農民から田畑を取り上げることを禁じるなどの農民保護策をとっているからだろう。「酒は害がある」として「一屋一壺制」で酒の醸造量を制限し、自らも台所の味噌(みそ)だけをさかなに質素な「家飲み」をしていたという。家飲みは質素倹約のためで感染対策ではないが、感染症や飢饉(ききん)で民が苦しんでいるときにぜいたくはできないと考えていたのは史実とみられる。

 鎌倉時代の御家人救済策として有名な徳政令については以前に取り上げた(こちら)が、撫民令は徳政令より前に出されている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「時頼の撫民政策は荒くれ者・収奪者だった武士が、民衆の利益を優先する統治者へと変化した意識改革の重要な転機だった」と評価している。

天然痘ワクチンを後押しした藩主

鍋島直正(『佐賀藩海軍史』国立国会図書館蔵)
鍋島直正(『佐賀藩海軍史』国立国会図書館蔵)

 江戸時代の佐賀藩主、鍋島直正(1815~71)は、天然痘のワクチン接種を積極的に後押ししたことで知られる。麻疹とともに恐れられた天然痘のワクチン(牛痘)については、鎖国下での蘭学者ネットワークの活躍を以前、このコラムでも取り上げた(こちら)が、直正はシーボルト(1796~1866)に西洋医学を学んだ伊東玄朴(1801~71)らを次々に藩医に採用し、このネットワークを作り上げた立役者のひとりだ。

 嘉永2年(1849年)に海外から長崎に牛痘の苗が届くと、まだ3歳だった跡継ぎの淳一郎(のちの鍋島直大(なおひろ)、1846~1921)や長女の貢姫(みつひめ)(1839~1918)に接種させている。海外でも「接種すると牛になる」と敬遠されていた牛痘を率先してわが子に打たせ、安全性をPRしたことは、その後の牛痘ワクチン普及に大きく貢献した。

統治者のため?の感染症対策

鍋島直大(『中国と日本:世界一周旅行中の経験、研究、観察』)
鍋島直大(『中国と日本:世界一周旅行中の経験、研究、観察』)

 直大は日本で最初に天然痘ワクチン接種を受けた殿様になったわけだが、当然ながらワクチンで防げるのは天然痘だけだ。直大は文久2年(1862年)に長崎で麻疹にかかっている。直正は長崎に蘭学医を派遣し、最後はオランダから購入した最新鋭の軍艦「電流丸」に直大を乗せて佐賀まで緊急搬送した。直正は西洋文明を積極的に取り入れた開明派ではあるが、若殿ひとりの搬送のために軍艦まで出したことからも、感染症対策を統治者のためと考えていたのは明らかだ。わが子に牛痘を打たせたのも、領民への普及促進というより、統治者への“優先接種”の意味合いが強かったのかもしれない。

 麻疹は江戸時代だけで13回も流行し、文久2年の大流行では江戸だけで24万人近くが死亡したとされる。保健科学研究所学術顧問でウイルス学者の加藤茂孝さんは、文久の麻疹大流行によって増幅された社会不安は、徳川幕府崩壊の大きな要因になったと指摘している。

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2079439 0 今につながる日本史 2021/05/26 13:43:00 2021/05/26 13:43:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/05/20210525-OYT8I50034-T.jpg?type=thumbnail

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