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堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか

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調査研究本部 丸山淳一

 史実とはわかっていても、もう少し先延ばしできなかったか、と「平岡ロス」に陥っている視聴者も多いのではないか。NHK大河ドラマ『青天を()け』の5月30日放送回で、ドラマ前半のキーマンだった一橋(徳川)慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)が暗殺された。

「懐が深く、部下思いの人情家」は史実と異なる?

堤真一さんが演じた平岡円四郎
堤真一さんが演じた平岡円四郎

 平岡は慶喜とともに公武合体を進めて攘夷(じょうい)の志士と対立したが、倒幕を企てて幕吏に追われていた渋沢栄一(1840~1931)を一橋家の家臣に取り立て、窮地から救っている。だが、意外なことに渋沢は、その大恩人をあまり褒めていない。渋沢の談話集『実験論語処世談』の中で渋沢は円四郎について「一を聞いて十を知ることができる数少ない人だった」と述懐した上で、こうつけ加えている。

 「一を聞いて十を知るというのも、学問なら格別だが、一概に結構な性分とは言えない。(中略)こういう性格の人は自然と他人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものだ。平岡が水戸浪士に暗殺されてしまったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせ、あまりに他人の先回りばかりした結果ではなかろうか」

 同書の別のくだりでは、「平岡が非凡の才識を有していたのは間違いないが、人を鑑別する鑑識眼は乏しかった」とも評している。自分を一橋家の家臣にしたのも、「まだ若いのに殺されてしまうのは可哀(かわい)そうだから助けてやろうくらいのことで、私を()て大いに用いるべしとしたからではなかろう」と少々手厳しい。他の史料も円四郎を「人づきあいが下手で、独りよがり」と評している。どうやら堤真一さんが演じた「懐が深く、部下思いの人情家」のイメージは史実とは少し異なるようだ。

 幕末の動乱下では先を見る()とともに、味方を増やす交渉能力が不可欠なはずだ。英名を博した慶喜は、なぜ円四郎を好み、最後は家老格に引き上げてまで重用したのか。実は慶喜と円四郎が結びついた裏には、それぞれの実父の思いがあった。

優れた行政官だった円四郎の実父と養父

円四郎の実父、岡本忠次郎(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)
円四郎の実父、岡本忠次郎(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)

 平岡円四郎は、旗本の岡本忠次郎(1767~1850)の四男に生まれ、天保9年(1838年)16歳でやはり旗本の平岡家の養子となっている。忠次郎は「花亭」の別名で漢詩を詠んだ文化人として知られるが、優秀な行政官でもあった。勘定奉行の下僚から天保8年(1837年)に信濃・中野(長野県中野市)の代官に抜擢(ばってき)された忠次郎は、その翌年、領地に冷害が起きると、幕府に掛け合って下賜金を得て、領民に分配している。江戸城の火災で幕府から復旧費の要請が来ると、領民から2700両を集めているから、領民をしっかり掌握できていたのだろう。

 ちなみに越後・水原(新潟県阿賀野市)と会津・田島(福島県南会津町)の代官を兼ねていた養父の文次郎も、越後と会津を結ぶ山岳ルート「八十(はちじゅう)()(ごえ)」を馬が通れる道に整備・拡充したことで知られる。名代官として領民に慕われ、平岡の転出が決まると、農民代表が江戸にのぼって平岡の留任を訴えたという。円四郎が平岡家の養子になったいきさつははっきりしないが、忠次郎と文次郎はともに幕府と領民の間に立つ中間管理職として、政策や領民掌握術の情報交換をする仲だったのかもしれない。

 実父と養父の行政官としての才覚に接した円四郎は、旗本や御家人の子弟が集まる昌平坂学問所の「学問所寄宿中頭取」、つまり学生寮の寮長に就職した。学問所の選抜は実力主義で、成績優秀者は幕府の要職に登用される。全国から集まる向学の士とともに見識を高め、父のように抜擢されるという夢を抱いていたのではないか。

慶喜の人物にほれ込み、側近に

京都若州屋敷(『徳川慶喜公伝、二』国立国会図書館蔵)
京都若州屋敷(『徳川慶喜公伝、二』国立国会図書館蔵)

 だが、円四郎はわずか2年で「武術鍛錬のため」と称して学問所を辞めてしまう。学問所に集まるのは出来のいい子弟ばかりではなかった。人づきあいが苦手な円四郎には、さほど向学心もない「箱入り息子」のお世話は相当苦痛だったはずだ。退職後の円四郎は武術鍛錬もせず、10年近く定職にもつかず、親を心配させるが、夢をあきらめたわけではなかった。勘定所への就職を目指し、今でいうアルバイトのような形で町方与力のアシスタントをしていたという。

 『青天を衝け』の時代考証を担当している東北公益文科大学准教授の門松秀樹さんによると、高い筆記・計算能力が求められる勘定所は、家格に関係なく能力があれば出世できる数少ない役所だった(『明治維新と幕臣』)。実力主義の世界にいればおべっかや忖度(そんたく)は必要ない。人づきあいが下手なら、能力をつければいい、と考えたのだろう。

藤田東湖(『肖像』国立国会図書館蔵)
藤田東湖(『肖像』国立国会図書館蔵)
川路聖謨(『国史大辞典』国立国会図書館蔵)
川路聖謨(『国史大辞典』国立国会図書館蔵)

 その能力に目をつけたのが、自身も勘定所の下僚から勘定奉行まで昇りつめた(かわ)()聖謨(としあきら)(1801~68)だった。昔からつきあいがあった忠次郎から相談された川路は、円四郎を水戸藩の藤田東湖(1806~55)に紹介した。一橋家には慶喜の側近として中根長十郎(1794~1863)がいたが、聡明な慶喜には、言われた通りのことしかしないイエスマンの中根は側近としては物足りなかった。慶喜には主君に直言も辞さない「諍臣(そうしん)(気骨ある家臣)」が必要だと考えた父の徳川斉昭(1800~60)は、東湖に人選を依頼していた。おべっかを使わず自らの能力だけを頼みにする円四郎は、まさにうってつけの人材だった。

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2094284 0 今につながる日本史 2021/06/02 10:00:00 2021/06/02 15:26:26 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/05/20210531-OYT8I50066-T.jpg?type=thumbnail

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