調査研究本部 丸山淳一
郷土の偉人、伊能忠敬(1745~1818)を大河ドラマの主人公にするため奮闘する千葉県香取市役所の職員と、200年以上前につくられた忠敬の日本地図を巡る秘話を描く映画『大河への道』が封切られた。原作は立川志の輔さんの創作落語で、志の輔さんは忠敬の日本地図が衛星写真の日本列島との誤差がわずか0.2%しかないことに驚き、忠敬の偉業をたたえる話を作ったという。
日本地図完成まで伏せられた忠敬の死
『大河への道』江戸時代パートでは高橋景保を中井貴一さん(中央)、忠敬の内縁の妻エイを北川景子さん(右)、景保の部下、又吉を松山ケンイチさん(左)が演じる(c)2022「大河への道」フィルムパートナーズ
『大河への道』は現代と江戸時代とを行き来しながら話が進むが、冒頭、忠敬が死去する場面から始まり、忠敬を演じる役者はいない。事実上の主人公は忠敬の死後に「大日本沿海
輿地
全図」を完成させた幕府天文方の高橋
景保
(1785~1829)と忠敬の弟子たちだ。映画が描くのは、忠敬の死後、景保や忠敬の弟子たちが忠敬の死を必死に隠して地図を完成させるまでの3年間にわたる苦闘の物語だ。
忠敬の孫、伊能
忠誨
(1806~27)の日記によると、忠敬は文政元年(1818年)4月に73歳で没するが、喪が発せられたのは、日本全図が幕府に上呈(納品)された約2か月後の文政4年(1821年)9月だった。映画で描かれるこの間の地図作りをめぐるさまざまなエピソードの真偽はともかく、景保らが忠敬の死を伏せて地図を完成させたのは史実通りといえる。
忠敬を主役にした大河ドラマを売り込もうと意気込んでいた香取市役所の職員は、景保らの努力を知って、大河ドラマの主役はむしろ景保だと考えるようになる。だがここはまず、映画のなかでも紹介される忠敬の偉業について振り返っておこう。
測量で割り出した距離、今の数値とほぼ同じ
伊能忠敬(『肖像』国立国会図書館蔵)
下総国佐原(今の千葉県香取市)の名主だった忠敬は49歳で隠居し、幕府天文方だった景保の父、高橋
至時
(1764~1804)に弟子入りして本格的に天体観測や測量を学び始める。忠敬は農家の束ね役として収穫の見通しを立てるため、独学で天文学を学んでいた。天体観測や暦の作成を行う天文方の第一人者だった至時が、自分より年上の忠敬を弟子にしたのは、忠敬の知識と熱意が人並み外れていたからだろう。
浅草天文台での天文観測(葛飾北斎『鳥越の不二』国立国会図書館蔵)
むろん忠敬は、地球は丸いことを知っていた。だが、緯度1度の距離については当時定説がなく、地球の大きさがどれくらいなのかが分からなかった。向学心に燃える忠敬は、歩測によるデータや三角関数を駆使して浅草天文台(暦局)から深川黒江町の自宅までの直線距離を割り出したが、至時は「そんな短い距離では誤差が大きくてだめだ。もっと長い距離なら(忠敬の方法は)使えるかもしれないが…」とたしなめている(『仏国暦象編斥妄』)。ならば江戸から東北、蝦夷地(北海道)までを歩測してみようと考えた忠敬は、寛政12年(1800年)、江戸(千住)から津軽(
三厩
)まで奥州街道を21日かけて踏破し、蝦夷地では西別(現在の別海町)まで、往復3200キロを歩き通して距離を実測した。
地図作成のために海岸の距離を歩測で測る測量隊(c)2022「大河への道」フィルムパートナーズ
歩測による距離計測に苦労する香取市役所の職員(c)2022「大河への道」フィルムパートナーズ
蝦夷地に入るには幕府の許可が必要だったため、実測の名目は「地図を作るため」とされ、地図は幕府に提出された。地図を見た幕府老中の松平
信明
(1763~1817)はその出来栄えに感心し、至時と忠敬に日本全土の測量を命じた。当時は日本の近海に外国船が出没し、幕府は国防のために正確な日本地図を必要としていた。かくして「地球の大きさを知りたい」という隠居老人の好奇心から始まった地図作りは、幕府が進める一大プロジェクトとなっていく。ちなみに忠敬が測量によって割り出した緯度1度の距離(約111キロ)と地球の外周(約4万キロ)は今の測量数値とほとんど同じだった。
実測の旅は10回にわたり、総日数は3753日。忠敬は55歳から71歳まで、第9次の伊豆七島測量を除いて自ら実測し、ほぼ地球1周分を歩いたとされる。第4次測量までは宿泊費などの経費は忠敬の自腹だったが、忠敬が幕臣に取り立てられた第5次の西日本測量からは幕府の直轄事業となった。