編集委員 丸山淳一
コロナ禍の影響などで公開が3度も延期された映画『峠 最後のサムライ』が公開された。原作は司馬遼太郎(1923~96)の同名小説で、主人公は役所広司さんが演じる越後(新潟県)長岡藩の家老、河井継之助(1827~68)。
戊辰
戦争のなかでも最大の激戦とされる北越戦争で、数に勝る新政府軍をさんざん苦しめた幕末の風雲児だ。
筋を通した結果、長岡は焦土に…今なお分かれる評価
継之助を演じた役所広司さん(C)2020『峠 最後のサムライ』製作委員会
継之助は旧幕府軍や会津藩など東北諸藩軍(映画では東軍)にも新政府軍(同じく西軍)にも
与
しない「非戦中立」を掲げるが、その願いがかなわないと知ると、藩をあげて新政府軍と戦う道を選ぶ。当時は最新兵器だったガトリング砲で新政府軍の猛攻をはね返し、夜陰に乗じて八町沖の沼地を渡る奇襲戦法で、一度は失った長岡城を奪還する。だが、続々と増派される新政府軍の反撃を受けて敗走し、会津に逃れる途中に戦いで受けた傷が悪化して力尽きる。
継之助はガトリング砲で新政府軍をなぎ倒す(C)2020『峠 最後のサムライ』製作委員会 主君・牧野家は徳川譜代の家柄で、新政府軍の会津攻撃は道理に合わない。恭順して新政府軍に会津攻めの先鋒を命じられるくらいなら、筋を通して正義に殉じるのが武士の道だろう――。映画は司馬の小説通り、継之助を誇り高きサムライとして描く。その生きざまを通じて「侍とはなにかということを考えてみたかった」(『峠』のあとがき)という司馬の原作を忠実に映像化すれば、武士道倫理の美しさが強調されるのは当然だろう。しかし、継之助の選択が正しかったのかどうか、地元の長岡でもいまだに評価は分かれている。継之助が戦う道を選んだ結果、長岡は焦土と化し、多くの領民が命を失い、家を焼かれたからだ。
「勝てないが、負けはしない」
原作も映画も描いていないが、戦いの最中には戦争継続に反対する藩内の農民が一揆をおこし、少なからぬ藩士が継之助と
袂
を分かち、新政府軍に投降している。新政府軍に恭順しても会津との戦いは避けられなかったというが、同様の立場に追い込まれた仙台藩は、あらかじめ会津と示し合わせて戦うふりをして窮地をしのいでいる。非戦を唱えていた継之助が、なぜ結果的に郷土を焦土にする道を選んでしまったのか。歴史家の安藤優一郎さんは著書『河井継之助』のなかで、その原因は継之助の「過信」にあったと分析している。
映画の小千谷談判のシーン。中央こちら向きが、吉岡さんが演じる精一郎(C)2020『峠 最後のサムライ』製作委員会
開戦直前、新政府軍と長岡藩軍がにらみ合う中で行われた
小千谷
・慈眼寺での談判で、河井は新政府側の軍監、岩村精一郎(1845~1906)を相手に「今は内戦で国土を疲弊させる時ではない」と力説し、自分が新政府と会津の和平を取り持つと申し出た。精一郎は全く聞く耳を持たず、総督府への嘆願書の取り次ぎも拒んで継之助は万策尽きてしまうのだが、事前の根回しもなく恭順の姿勢も見せない初対面の相手に「戦争を止めてみせるから任せろ」といわれても、うかつに信じられないのは無理もない。映画では50歳を超えた吉岡秀隆さんが演じる精一郎はこの時まだ23歳で、談判の決裂は精一郎の経験不足のせいとされる。しかし、映画のシーンとは逆に、精一郎は「談判で継之助は
傲然
たる態度を取り、議論で圧服しようとした」と後に述懐している。
映画には継之助が戦争の見通しを聞かれ、「勝てないが、負けはしない」と答えるシーンがある。藩政改革による富国強兵に成功した継之助が藩の自衛力に自信を持ち、自分なら新政府と会津の和解も周旋できると過信した、というのが安藤さんの分析だ。実は継之助は名将としてより、経済官僚としての手腕の方が際立っているのだが、映画では戦争以前の継之助の活躍をほとんど描いていない。