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米国発祥のジャズ、海を越えて日本に根を下ろす

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編集委員 西田浩

 ジャズは日本にいつごろ、どんな形で渡来したのだろうか?

 その前段としてジャズとはどんな音楽なのか概観しよう。ブリタニカ国際大百科事典では、「アメリカにおいて19世紀末頃始った新しい音楽。黒人の民俗音楽とヨーロッパ音楽を母体として生れ、楽器編成、メロディー、ハーモニーはヨーロッパ音楽の伝統を継ぎ,リズム、フレージング、サウンドは黒人の感覚をもとにしている」と説明している。

 米国・南部で奴隷として連れてこられたアフリカ系の子孫たちの手により自然発生的に生まれたようだが、草創期にその中心地となったのはニューオーリンズだ。この地で盛んだった管楽器中心のマーチングバンドや、米国中で流行していたピアノが主役となるラグタイム、黒人の大衆歌として発展したブルース、黒人の宗教歌と言えるゴスペルなどの音楽要素が融合し、ジャズは形作られた。1900年頃にジャズの始祖の一人とされるバディ・ボールデン(コールネット)が頭角を現し、その後、ジェリー・ロール・モートン(ピアノ)、ルイ・アームストロング(トランペット)といった才能が飛躍する。ちなみに、ジャズの最も重要な要素である即興演奏は、楽譜が読めなかった黒人奏者が主旋律を自らの感性に従って展開し演奏したのが始まりという説がある。

 ニューオーリンズ出身でニューヨークに拠点を移した、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが17年、世界で初めてジャズと銘打ったレコード「馬車屋のブルース」を発売した。さらにモートン、アームストロングが北部のシカゴに拠点を移し、シカゴがジャズの一大中心地になったことも重なり、南部のローカルな音楽だったジャズは急速に全米に広がり、黄金時代を迎えることになった。ジョージ・ガーシュウィンの手によるジャズを取り入れたオーケストラ作品「ラプソディ・イン・ブルー」がニューヨークで初演されたのは24年のことだった。

複数のルートで伝来、日本ジャズを形成

 話を元に戻そう。12年、太平洋航路に就航していた東洋汽船の地洋丸に船中娯楽のための楽団が同乗した。メンバーは波多野福太郎(バイオリン)ら東洋音楽学校(現・東京音大)出身者で、彼らは渡航先のサンフランシスコで流行している曲の楽譜を購入し、日本に持ち帰った。船内楽団は好評で、その後も継続されることに。その楽士たちが、米国の人気曲を日本に伝える役割を担った。

戦前のダンスホール。ジャズはダンスホールから広がっていった。
戦前のダンスホール。ジャズはダンスホールから広がっていった。

  18年頃、全米で大流行していたフォックストロットという社交ダンスが日本に伝わったが、その伴奏に使われた音楽がジャズの源流であるラグタイムだった。日本でも社交ダンスがブームとなり、次々とダンスホールが開店する。中でも20年に横浜でオープンした花月園は有名で、波多野の楽団や日本のジャズの草分けと言われる井田一郎(バイオリン)の楽団が出演していた。おそらくジャズの原型と言える音楽が日本で演奏されるようになったのは、この頃からだろう。井田が23年に神戸で結成したラフィング・スターズは、日本最初のジャズ・バンドと位置づけられている。

 「ジャズの伝播(でんぱ)にはいくつかのルートがあり、それらが相互波及することで、日本のジャズは段階的に成立していったと考えられる」と話すのは、戦前の音楽文化に詳しい戸ノ下達也・洋楽文化史研究会会長。

日本ジャズ草創期に活躍した井田一郎
日本ジャズ草創期に活躍した井田一郎

  船内楽団に加え、米国留学、遊学した上流階級の子弟が、現地で触れた音楽の譜面を持ち帰ったケースもあった。サイレント映画の伴奏用の譜面という形でジャズのレパートリーとなっていた楽曲が輸入されていたともいう。

 「ただ戦前は外国のポピュラー音楽をひとくくりにジャズと呼んでいた節がある上、ジャズはあくまでも演奏のスタイルであるので、音源資料が乏しい1920年代のどの時期に日本でジャズが成立していたのか確定させるのはきわめて困難」と続ける。

 欧米諸国の租界(居住区)があって、20~30年代にアジアのジャズの中心地となっていた上海経由も見逃せない。内田晃一著「日本のジャズ史 戦前戦後」によると、トランペット奏者の斉藤広義が21年に上海に渡って演奏活動を行い、現地最高と言われたフランス人奏者から手ほどきを受けたと証言している。その後、山口豊三郎(ドラムス)、南里(なんり)文雄(トランペット)も上海のナイトクラブで腕を磨いた。南里は同地で米国の名ピアニスト、テディ・ウェザーフォードから本格的なジャズ技法を学び、帰国後、日本ジャズ界のスターとして飛躍する。当時、「上海帰りは(はく)がつく」と言われていた。

日本に定着、意外と早かった

 ちなみに読売新聞で初めて「ジャズ」についての記述がみられるのは、21年8月4日の「人種戦争を防止せよ」という見出しの記事。ニューヨークでのアフリカ系による国際的な集会でジャズが演奏されたことを伝えている。25年1月18日の「楽界漫語」というコラムでは、悲哀漂う亡国的な音楽の流行を憂え、「(にぎ)やかなジャズの方が当然若い心を踊らせるだろう」と結んでいる。少なくとも、この時点でジャズと呼ばれる音楽が日本で浸透していたことを示している。

 米国で初のジャズレコードが出たのが17年だから、それから数年の間に日本でもジャズが根を下ろすことになったわけだ。当時の人の往来や情報流通を考えると、これは意外に早い文化伝来と言えるだろう。

 日本にジャズが渡来して約100年が経過する。その間、日本のジャズを飛躍、転換させるようないくつものキーポイントがあった。日本ジャズ史を動かした局面を、ジャズ・ミュージシャン、研究者や評論家らの証言を軸に振り返っていく。

 〈注〉記事中の証言は、引用元が明記されているもの以外は、筆者がこれまでの取材で直接聞いたものです。故人の発言については、取材時期を明示してあります。

プロフィル
西田 浩( にしだ・ひろし
 編集委員。1986年入社。静岡支局を経て90年に芸能部(後に組織改編で文化部)。放送メディア、ポピュラー音楽を中心に取材し、2009年に文化部次長、15年から現職。著書に「秋吉敏子と渡辺貞夫」「ロック・フェスティバル」「ロックと共に年をとる」など。

無断転載・複製を禁じます
1694456 0 日本ジャズの断面 2020/12/14 10:00:00 2020/12/14 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/11/20201118-OYT8I50081-T.jpg?type=thumbnail

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