戦時下の検閲包囲網、それでもジャズの灯は残った
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1930年代、ジャズの隆盛に歩調を合わせるかのように、ジャズ、ブルース、タンゴ、シャンソンなどの要素を取り入れた和製洋楽が花開き、「ダイナ」「別れのブルース」など多くのヒットを生み出した。一方で満州事変(31年)、日中戦争(37年)、太平洋戦争(41年)と戦火の拡大に伴い、音楽も統制の対象となり、国策へと利用されることになった。
まず、34年に出版法改正でレコード検閲が開始された。戦時下の音楽の実情を研究している戸ノ下達也・洋楽文化史研究会会長は「本来、安寧秩序妨害や風俗壊乱などを行う出版物を取り締まるための法律だったが、レコード検閲の実態はこの範囲を超えるものだった」と指摘する。

その代表的な事例が、36年に出た渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」への措置だった。発売前の検閲を通ったにもかかわらず、発売
米国音楽の象徴、押し入れでこっそりと

一方で、行政やメディアの主導で、詞や曲を公募もしくは著名な作詞・作曲家に委嘱する形で、時局を反映した“公式流行歌”とでもいうべき国民歌が盛んに創作されるようになった。37年には「露営の歌」「海ゆかば」「愛国行進曲」など、戦時期を代表する楽曲が立て続けに発表された。戦後、これらの曲は『軍歌』と呼ばれるようになった。
ちなみに、「愛国行進曲」は主要レコード会社がこぞって吹き込んでいるが、東海林太郎の歌で発売予定だったレコードが「歌い振りが、従来の流行歌調から一歩も脱却せず卑俗極まる」という理由で不許可になった。
そして、40年10月、都内の全ダンスホールが閉鎖された。この措置はその後、全国に波及することになった。ダンスホールの伴奏はもっぱらジャズメンの仕事。レコーディングや放送の仕事に進出していたとはいえ、ジャズ界にとっては大きな痛手だったと言えよう。