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コージー・カルテット結成…秋吉敏子と渡辺貞夫「運命の出会い」<下>

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編集委員 西田浩

 1953年の夏ごろ。約1年にわたった箱根の米軍の仕事を終え、東京に戻っていた20歳の渡辺貞夫(サックス)はジャフロというバンドを組んで、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」に出演していた。

 「当時僕はビバップに傾倒していたが、この店はアフリカ系の兵士が多かったので、彼らに好まれるようにビートが利いて乗りのいいリズム・アンド・ブルースを中心に演奏していました」

 ちなみにビバップとは、1940年代にチャーリー・パーカーらによって始められた、各奏者の即興演奏を重視したスタイルで、モダンジャズはここから始まったと言われる。戦後、日本のジャズはビバップの前のスタイル、スイングを中心にしていたが、若い奏者を中心に、ビバップを取り入れようという機運が芽生えていた。

「モダンジャズの若手代表」だった秋吉

 ハーレムにはピアニストのハンプトン・ホーズやサックスのハル・スタインら、米軍に招集されていたジャズ・ミュージシャンたちが出入りしていた。毎日曜日の昼間に、彼らはステージに集まり、ジャム・セッションを繰り広げていた。そこで、進駐軍のジャズ・ミュージシャンに交じって、奔放にピアノを弾く若い女性がいた。23歳の秋吉敏子だった。「僕と3つしか違わないのに、この時点で日本のモダンジャズを代表する若手として高く評価されていました。まさにあこがれの存在でした」と振り返る。

 そんな渡辺に、ある日、秋吉が声をかけてきた。「新しいバンドを作るんだけれど、一緒にやらない」

秋吉敏子(右)と渡辺貞夫(左)という未来の巨匠2人が並び立ったコージー・カルテット(1950年代前半から半ばに撮影)=エムアンドエムスタジオ提供
秋吉敏子(右)と渡辺貞夫(左)という未来の巨匠2人が並び立ったコージー・カルテット(1950年代前半から半ばに撮影)=エムアンドエムスタジオ提供

「日本にいないタイプ」の渡辺をスカウト

 その技巧は認められていた秋吉だが、同時にジレンマも抱えていた。サックス奏者の与田輝雄率いるシックス・レモンズに在籍し、高給を得ていたのだが、レギュラーで出演していた銀座の銀馬車というクラブではもっぱらダンス音楽を演奏することが求められた。「ビバップを追求したい」と願っていた彼女は、52年夏、シックス・レモンズを脱退し、自らがリーダーとなるコージー・カルテットを結成したが、メンバーの一人が病に倒れ、わずか数か月で解散の憂き目を見た。

ビバップの始祖と言われるチャーリー・パーカー。秋吉と渡辺はビバップを追求することになる
ビバップの始祖と言われるチャーリー・パーカー。秋吉と渡辺はビバップを追求することになる

 「結果的にフリーランス、実態は失業者になってしまうわけですね」と秋吉。後に渡辺プロダクションを設立し、多くの人気タレントを抱え、芸能界に君臨することになる渡辺晋が率いる人気バンド、シックス・ジョーズに雇われるなど、態勢を整えつつ、(けん)()重来を期していた。そして、満を持し、第2期コージー・カルテット結成に乗り出したのだ。

 「貞夫さんの演奏は、ハーレムで聴いたんでしょうね。当時の日本のアルトサックスは、お行儀のいい演奏をする人ばかりでしたが、貞夫さんはチャーリー・パーカー・スタイル、もう少し正確に言うと、ジャッキー・マクリーンにより似ていたかもしれませんね。いずれにせよ、当時の日本にはいないタイプの奏者でした。私が目指す音楽には、ぜひほしい人でした」

 一方、渡辺にとって、この誘いを断る理由はなかった。「僕の演奏を聴いて、認めてくれた。うれしかったですね」と話している。かくして、秋吉と渡辺が並び立つ、今から考えれば夢のバンドが誕生した。

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2024906 0 日本ジャズの断面 2021/05/06 10:00:00 2021/05/06 18:57:59 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/03/20210310-OYT8I50005-T.jpg?type=thumbnail

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