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ジャズ界の才能、垣根を越えて…歌謡界への貢献<上>

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編集委員 西田浩

 ジャズと歌謡曲。距離があるように思えるが、ジャズ界は歌謡界に多大な貢献を果たしているのだ。江利チエミ、雪村いづみ、ペギー葉山、フランク永井、松尾和子……。いずれも進駐軍回りから歌謡曲に転じ、大成功を収めている。

吉田正作曲の都会的なムード歌謡で人気を上げたフランク永井
吉田正作曲の都会的なムード歌謡で人気を上げたフランク永井

 永井は「有楽町で逢いましょう」(1957年)、松尾は「誰よりも君を愛す」(59年)と、昭和を代表する作曲家、吉田正の手による楽曲で飛躍したことから、“吉田学校の門下生”として知られる。亡くなる前年の97年に吉田にインタビューした時、こんなことを話していた。

 「僕の作風は都会的と評される一方、都会でしか通用しないと 揶揄(やゆ) されたこともあった。でも偉大な先輩たちの中で埋没しないために、それを貫きました。銀座のバーのサラリーマンの会話をヒントに時代の香りをかぎ取り、曲のイメージを膨らませていったものです。そんな中、永井の米軍キャンプ仕込みのジャズ感覚を取り入れたら新しい時代の歌ができるはずと感じていました。それが形になり、ムード歌謡と呼ばれるようになったのです」

 「有楽町で逢いましょう」の前奏は、ピアノとビブラフォンとギターのユニゾン(同じ旋律の合奏)なのだが、これは英国生まれのジャズピアニストで作曲家のジョージ・シアリングが好んで用いた手法だ。

「南国土佐」、音楽の幅を広げてくれた…ペギー葉山

 52年に18歳でレコードデビューした葉山は、59年、「南国土佐を後にして」を大ヒットさせ、歌謡界での地位を確固たるものにした。望郷の念が描かれたこの曲は、中国の戦地で高知の部隊によって自然発生的に歌われ、復員兵によって高知にもたらされ、地元に定着していた。「南国土佐――」について、葉山はこんなエピソードを語ってくれた。

進駐軍ジャズ出身だが、歌謡界での出世作は民謡調の「南国土佐を後にして」だった
進駐軍ジャズ出身だが、歌謡界での出世作は民謡調の「南国土佐を後にして」だった

 「58年、NHK高知放送局のテレビ放送開始記念番組に出演することになったのですが、NHKのディレクターにこの曲を歌ってほしいと頼まれました。『民謡調の曲なんて歌ったことがないので、私には無理』と断ったのですが、彼は 執拗(しつよう) に食い下がり、『せめて来場したお客さんのため、放送がない時間に歌ってほしい』というので、渋々承知しました。ところが会場入りしたら、放送中に歌うスケジュールになっていた。『やられた』と思った時は手遅れでした。放送後、反響が殺到し、レコーディングすることになりました。気が進まないままに録音したのですが、これが大ヒット、私の代表曲になりました。結果的にジャズの枠を超え、自分の音楽の幅を広げてくれたわけです」

 葉山には何度も取材する機会に恵まれたが、からっとした人柄で、よく通る声とテンポのいい語り口が印象的だった。彼女の自宅でインタビューした時には、「知人が送ってくれたんだけれど、これすごくおいしいから」と、高知の栗焼酎「ダバダ火振」を振る舞ってもらい、いい気分でやり取りしたこともあった。

 葉山は2017年4月に83年の生涯を閉じたのだが、そのわずか2か月前に取材し、年齢を感じさせないはつらつとした姿を見ていたので、突然の訃報には言葉を失った。その最後のインタビューでは1982年に45歳の若さで亡くなった江利のことを話してくれた。

 「チエミさんと私は、ともに52年にキングレコードからデビューしました。10か月早くデビューした彼女は、私がデビューした時にはすでにスターになっていましたが、同じ進駐軍回りをしてきたジャズ歌手として負けたくない思いは強かった。彼女の存在があったからこそ、私は頑張れた。少なくとも私にとってはいいライバルでした。同時にいい友達でもありました。会えば、他愛のないおしゃべりをしていましたよ」

 敬愛する米国の名歌手、ドリス・デイとのエピソードも披露してくれた。

 「とにかくあこがれの存在で、私のデビュー曲が彼女のレパートリーだった『ドミノ』だったことは、本当にうれしく、何か運命的なものを感じたほどでした。でもね、後年、彼女と初めて会った時に、私はあなたが歌っていた『ドミノ』でデビューしたって伝えたら、『あら、私、そんな曲歌っていたかしら』だって。私にとっては、大切な曲だったのにね」

 いつもの気さくな様子で笑いながら話してくれたのが、今でも目に浮かぶ。

作曲、後進の育成…進駐軍ジャズ出身者の華麗なる転身

 歌謡界への貢献は、歌手に限らずだ。ジョージ川口(ドラムス)率いるビッグ・フォーの中村八大(ピアノ)は、後に作曲家に転じた。作詞家・永六輔とのコンビで、坂本九の「上を向いて歩こう」(61年)、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(63年)、北島三郎の「帰ろかな」(65年)などのヒット曲を生んだ。

 また、50年代のジャズ黄金時代の人気バンド、シックス・ジョーズを率いた渡辺晋(ベース)は、渡辺プロダクションを設立し、伊東ゆかり、小柳ルミ子、キャンディーズ、布施明ら数多くの才能を育て、芸能界に一大帝国を築いた。多少、大げさかもしれないが、「進駐軍ジャズなくして歌謡界はなし」と言えるのだ。

プロフィル
西田 浩( にしだ・ひろし
 編集委員。1986年入社。静岡支局を経て90年に芸能部(後に組織改編で文化部)。放送メディア、ポピュラー音楽を中心に取材し、2009年に文化部次長、15年から現職。著書に「秋吉敏子と渡辺貞夫」「ロック・フェスティバル」「ロックと共に年をとる」など。

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2128584 0 日本ジャズの断面 2021/06/17 10:00:00 2021/06/17 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/05/20210510-OYT8I50069-T.jpg?type=thumbnail

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