渡米ラッシュの70年代、チャンスつかんだ若者たち…海外を目指して<中>

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編集委員 西田浩

 日本を拠点にしつつ、海外での活動を目指すというやり方がある。米国留学から1965年に帰国後、日本ジャズ界を活性化しつつ、じっくりと時間をかけて世界進出を果たすことになる渡辺貞夫(サックス)はその代表格だろう。一方で、本場・米国に渡り、地道に活動を重ねて、チャンスをつかむという方法もある。70年代に入ると、日野 皓正(てるまさ) (トランペット)、鈴木良雄(ベース)、菊地 雅章(まさぶみ) (ピアノ)、増尾好秋(ギター)、川崎燎(ギター)ら、第一線で活躍していた俊英たちが、雪崩を打ったように渡米する。決して申し合わせたわけではないだけに、興味深い現象と言えるだろう。

 その先駆者は、56年に留学のため渡米して以来、2年ほど帰国していた時期を除き、一貫して米国に住み、現地で活躍していた秋吉敏子(ピアノ)であることは言うまでもない。まだ、海外渡航自体が容易でなかった時代に、現地でも珍しい女性奏者で東洋人、しかも育児を並行させながら奮闘する姿は、後進たちに勇気を与えたことは間違いないだろう。

大学中退し米国放浪、77年のアルバムヒット…中村照夫

中村照夫は1960年代から米国に渡り存在感を発揮した
中村照夫は1960年代から米国に渡り存在感を発揮した

 これに続いたのが、中村照夫(ベース)。中村の場合、大学在学中にバンド活動の経験はあるものの、日本ジャズ界では無名。64年に大学を中退し、米国放浪の旅に出かけ、そのままニューヨークに住み、職を転々としつつ、演奏活動を始めた。次第にその腕が評判となり、69年にロイ・ヘインズ(ドラムス)のバンドに加入し、注目されるようになった。70年代半ばからは自身のバンド、ライジング・サンを率い、77年のアルバム「マンハッタン・スペシャル」が米国でヒット。そのしゃれたサウンドは90年代にクラブDJらに再発見され、楽曲がサンプリング(引用)されるほどだった。まさに徒手空拳からの成功。ただ、70年代の活躍ぶりは今ひとつ日本に伝わらず、他の大御所たちと比べると、一般的な知名度は低いように思える。99年に日本ジャズ界最高の栄誉、南里文雄賞を受賞した際には、「ずっと米国で活動していた僕が、この賞をもらえるのは、正直言って意外だった」と話していた。

軽い気持ちでNYへ、巨匠の信頼得たギター…増尾好秋

 増尾の渡米は、中村のケースに近いかもしれない。早稲田大モダンジャズ研究会に所属し、大学の学園祭に招いた渡辺貞夫と共演する機会に恵まれた。それをきっかけにスカウトされ、大学3年生の67年に渡辺のバンドに加わった。2年後には初のリーダー作を出し、70年には渡辺のバンドでモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演。この年は、ジャズ専門誌「スイング・ジャーナル」の人気投票で日本人ギタリスト部門の1位に輝いた。まさに昇り竜の若手だった。

ソニー・ロリンズ(左)のバンドで活躍した増尾好秋
ソニー・ロリンズ(左)のバンドで活躍した増尾好秋

 増尾が71年、渡辺のバンド解散を機に、同世代のジャズ仲間とともにニューヨークへと旅立ったのは、「どっぷりと本場のジャズにつかり、自分の糧にしようと思った。半年ほどで戻る予定だった」といった軽い気持ちからだった。最初は交流のあった中村の自宅に居候した。中村の協力も仰ぎ、ギターを携え、ジャズ・クラブを巡って隙あらば飛び入りして人脈を広げ、演奏活動を行っているうちにあっという間に半年は過ぎていった。「同行者は帰国したのですが、僕はちょうどその頃、米国人女性と結婚することになり、そのまま居ついてしまったんです」と笑う。

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使い方
2650938 0 日本ジャズの断面 2022/01/06 10:00:00 2022/01/06 10:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/12/20211203-OYT8I50031-T.jpg?type=thumbnail

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