Vol.22 日本のスター日野皓正、衝撃の渡米…海外を目指して<下>

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編集委員 西田浩

 前回記したように、1970年代、日本ジャズ界の人気奏者たちが次々と米国へと渡った。中でも75年、日野 皓正(てるまさ) (トランペット)が米国に居を移したことは日本ジャズ界に衝撃を与えた。当時、第一人者・渡辺貞夫(サックス)の次を担う若きスターとして君臨していたからだ。

父のスパルタ教育受け、中学時代からバンド渡り歩く

「シティ・コネクション」のヒットで再び人気を爆発させた日野皓正。1980年のジャズ祭「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」出演は凱旋(がいせん)公演となった
「シティ・コネクション」のヒットで再び人気を爆発させた日野皓正。1980年のジャズ祭「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」出演は凱旋(がいせん)公演となった

 1942年に東京で生まれた。父はタップダンサーでトランペット奏者。父親の指導の下、幼い頃からその二つを学んだ。「間違えると革バンドでひっぱたかれるというスパルタ教育でした。友達は外で楽しそうに遊んでいるのに、なぜ僕だけが……と涙にくれましたね」と笑う。デキシー、スイング、ビバップ……。まるでジャズの歴史を網羅するかのような父のレコードコレクションを聴いて育ち、音楽は大好きだった。「特に疑問を持つこともなく、父のようなプロの演奏家になるんだろうな」と考えるようになっていた。

 中学時代から都内のキャバレーに出演。様々なバンドを渡り歩き、人脈を広げ、腕を磨いていく。1960年代初頭、高柳昌行(ギター)や金井英人(ベース)を中心に新しいジャズを模索した新世紀音楽研究所に加わり、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に演奏活動を繰り広げた。きっかけはほとんど面識のなかった菊地 雅章(まさぶみ) (ピアノ)の誘いだった。以後、菊地との盟友関係は長く続くことになった。もっとも最初は先輩格の菊地に頭が上がらなかったようで、こんな話をしてくれた。

 「年長の高柳さんや金井さんは穏やかな方で、若い奏者たちが好きにやればいいという感じだったけれど、若手は皆とがっていて、前衛的な音を求めていた。特にプーさん(菊地の愛称)はおっかなくて、僕の演奏についても随分厳しいことを言われた。だから銀巴里のステージに立っている時も、プーさんが現れると緊張したなあ」

来日奏者と積極的に交流…「ヒノテル・ブーム」巻き起こす

 64年には人気ドラマー、白木秀雄のバンドに加入、翌年にはベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演するなど、脚光を浴びるようになった。そして67年、初のリーダー作「アローン・アローン・アンド・アローン」を出すと、一気に人気が爆発した。ちなみに表題のバラードはその数年前に完成させ、ライブで演奏していたところ、それに感銘を受けた米国の人気トランペット奏者、ブルー・ミッチェルが自らのステージで演奏し、日野の初アルバムに先立つ65年のライブ盤「ダウン・ウィズ・イット」に収録したという逸話がある。日本人が作曲した最も有名なジャズ・ナンバーと言われるほどだ。ミッチェルのみならず、当時、日本では米国の人気奏者たちが続々と来日公演を開いており、日野は積極的に交流を図っていた。それは後述するように、彼の大きな財産になる。

 その後結成した菊地との双頭バンドも高く評価された。70年に映画「白昼の襲撃」のサウンドトラックを担当するが、その中の1曲で、ファンクテイストの「スネイクヒップ」はシングル盤として発売され、ジャズでは異例のヒットを記録した。流行のファッションに身を包み、都会的でスマートな 容貌(ようぼう) も相まって、この時期の日野は、「ヒノテル・ブーム」と呼ばれるほど、絶大な人気を誇っていた。もっとも当人は、「食うには困らなかったけど、本当にブームだったの? ジャズという狭い世界の中だけのことでしょう」と我関せずなのだが……。

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