ギリシャのならず者ブルース、翻訳マンガに革命起こすか
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・ダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』(原正人訳、サウザンブックス)

年末年始、移動中のクルマでかけっぱなしにしていたのが、米津玄師とLiSAとマルコス・ヴァンヴァカリスだった。最後の1人は「誰?」と思われるだろう。1920年代のギリシャで発生したポピュラー音楽「レベティコ」(複数形はレベティカ。レベーティカ、レンベーティカとも)の祖と呼ばれるミュージシャンだ。
ネットで探して、2枚組みのCDを手に入れた。マンドリンの首を長くしたような「ブズーキ」という弦楽器を弾きながら歌うマルコスは、渋いというよりダミ声で、メロディーも単調。米津玄師と一緒に聴くと、なおさら素朴さが際立つ。レベティコは「ギリシャのブルース」と呼ばれるが、「ギリシャの演歌」の方が合っていそうだ。ジャンル的には西洋音楽なのに、中東かアジアの雑踏にいるような、不思議なムードにひたれる。
突然、こんなCDを聴き始めたのには訳がある。年末に、『レベティコ―雑草の歌』を読んだからだ。バンド・デシネ(
つらい人生を忘れるランチキ騒ぎ

舞台は1936年のギリシャ・アテネ。監獄で半年間の服役を終えたマルコスが出所する。この年、ギリシャはヒトラーに心酔する元軍人メタクサス首相による独裁が始まり、スラム街の酒場やハシシ(大麻の一種)窟などがライブ拠点となるレベティコは、風紀を乱す音楽として、演奏自体が取り締まりの対象になっていた。
リーダー格のマルコスを、仲間のミュージシャンたちが出迎える。麻薬密売人でけんかっ早いスタヴロス、陽気で食えないオヤジのバティス、チャラいが繊細なアルテミス、不倫相手の夫ともめ事を起こして逃走中の「犬っころ」。定職を持たず、「レベテース」あるいは「マンガス」(いずれも「ヤクザ者」の意)と呼ばれる彼らは、ハシシの水タバコで再会を祝し、久々に全員そろって夜の酒場でセッションする。興に乗った客がスローな回転ダンスを踊り、酔っ払い同士で流血の乱闘も起こる。ここにいる誰もが社会の負け犬。つらい人生を一時忘れるランチキ騒ぎの長い夜は、今始まったばかり……。
「どいつもこいつも死刑にしてやる」
このマルコスのモデルが、ギリシャ人なら誰もが知るという名曲「フランゴシリアニ」などを作ったマルコス・ヴァンヴァカリス(1905~72年)だ。他の何人かのミュージシャンにもモデルがいるらしい。ただし、物語自体は実録ではなく、あくまでフィクションのようだ。
とにかく魅力的なのが、あぶれ者ミュージシャンたちの個性豊かな生態。全てのコマが映画のシーンのようにキマっている。ハシシの煙が渦巻くシーンの数々は、私たちの感覚からはいただけないが、当時のアテネのスラム街では日常風景だったのだろう。

マルコスの評判を聞きつけ、米コロムビア社のスカウトが酒場のライブに現れる。しかしマルコスは、検閲に引っかからないような、甘ったるいお上品な音楽を録音しても、<そこに現実はねえ!>と言い放つ。
<オレたちの周りにいる港の男どもを見てみろよ ヤツらはここに来て オレたちが歌う真実に酔う オレたちの人生はつながってるのさ…>
違法演奏のカドで憲兵に追われ、夜の海に仲間とボートでこぎ出し、マルコスはなおも歌う。
<オレは首相に立候補してみようかと思う ダラダラ暮らし 好きなように飲み食いするために オレは首相に立候補してみようかと思う 議会に行って どいつもこいつも死刑にしてやる 全員に水タバコをやらせてやる ヤツらが全員ハイになるまで>
このすごい歌、『マルコス大臣』というタイトルで、本当にあるそうだ。この物語から5年後の1941年、アテネはナチス・ドイツに占領される。迫り来る不穏な空気の中で、無頼の音楽家たちは歌い続ける。一見ダラダラ陽気に、しかし心は熱くハードに。
クラウドファンディングで翻訳実現

訳者の原正人さんは、ニコラ・ド・クレシー『天空のビバンドム』(飛鳥新社)、メビウス『アンカル』(A・ホドロフスキー原作、小学館集英社プロダクション)、トニー・ヴァレント『ラディアン』(飛鳥新社)など、数々の傑作BDを翻訳してきた第一人者。『レベティコ』の原著を2009年に読み、すぐに「訳したい」と思ったが、レベティコという音楽は、まったく知らなかったという。
「ギリシャにこんなブルースみたいな音楽があるんだと、びっくりしたくらいです。一番ひかれたのは、絵にすごく色気があって、ミュージシャンたちの着こなしがカッコいいこと」
例えば、アルテミスはジャケットを肩に引っかけ、片袖だけ腕を通すという不思議な着こなしをしている。
「後で知りましたが、上着の片方だけ袖を通すのは、マンガス独特のスタイルで、刃物で襲われた時、とっさに上着を盾にするためだそうです。そんな奥深いディテールがわかるにつれ、ますます好きになりました」

原さんは『レベティコ』を様々な出版社に売り込んだが、何しろ舞台も音楽も日本人になじみがない。「商業的に難しい」と断られ続けた。「それなら自分で動くしかない」と、サウザンブックス社と組み、クラウドファンディングで支援を募り始めたのが2019年11月。約3か月で目標を30%近く上回る金額を集め、20年10月に同社から刊行された。後述するが、これはかなり画期的なことである。