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白土三平さんの『カムイ伝』を始め、つげ義春さんの『ねじ式』や、林静一さんの『赤色エレジー』などを掲載し、1960年代後半から70年代初めにかけ、若者カルチャーの中心として強烈な光を放った「月刊漫画ガロ」(青林堂)。ちくま文庫オリジナル『神保町「ガロ編集室」
催涙弾の煙の中で作られた雑誌

「ガロ」の創刊号は1964年9月号(発売は同年7月頃)。編集室は東京都千代田区神田神保町1丁目のビルの2階にあった。同誌の黄金期と言われるのが68年前後、全国で学生運動がピークを迎えた頃だ。ヘルメットをかぶった学生が編集室を訪れて「ガロ」を買っていったこともあったという。
「『ガロ』が部数を伸ばしたのは、ベトナム反戦運動や70年安保、沖縄返還闘争などが激しくなった頃です。高度経済成長の名の下に社会的矛盾が噴出して、若者たちは苦悩し、いらだっていた。『ガロ』には、そんな
「何しろ、学生運動が盛んだった日大、中央大、専修大、明治大などから数百メートルしか離れていない場所に編集室があったから。毎日のように靖国通りでデモがあり、路地裏に逃げ込んだ学生に、機動隊員が催涙弾を撃ちまくる。夏などは、開け放したベランダの窓からその煙が入ってきて、みんなボロボロ涙が出て仕事にならなかった」
伝説の雑誌は、機動隊の催涙弾に
「ガロ」最大の問題作『ねじ式』
「ガロ」は、元々、白土三平さんが『カムイ伝』を連載するための媒体として創刊された。出資も白土さんで、当初は「月刊白土三平」の色彩が強かった。その一方で、既成の商業誌の枠に収まらない新人を次々とデビューさせたことでも知られる。
「編集長は長井勝一さんでしたが、実質的に編集を担ったのは白土さんの作画チーム『赤目プロ』でした。白土さんは、ユニークな才能を発掘する編集者としてのセンスも優れていた。水木しげるさんも『ガロ』からブレイクしているし、つげ義春や佐々木マキ、池上遼一といった作家は、白土さんがいなかったら世に出なかったんじゃないかな」
『カムイ伝』は別格として、「ガロ」史上、最も有名な作品を挙げるなら、68年6月増刊号「つげ義春特集」の巻頭を飾った『ねじ式』だろう。
<1968年という年は私たちの芸術にとって、つげ義春という
このように『ねじ式』を激賞したのは、詩人で仏文学者の天沢退二郎さん。以来半世紀、この作品が、いったい何種類の単行本やアンソロジーに掲載されたのか、ちょっとわからないくらいだ。
最近でも、ちくま文庫の『現代マンガ選集』第1巻と、あすなろ書房の『家族で楽しむ「まんが発見!」』第9巻に収録されている。「1968年を代表する名作」という評価は、今後も揺らぐことはないだろう。
その『ねじ式』を、最初につげさんから受け取った編集者が、高野さんだ。