岸田首相が仕掛けた最大派閥の分断 人事と歴史から見えてくる狙いとは

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大きくなり過ぎて分裂する歴史

(左から)佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫の各元首相(1972年)
(左から)佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫の各元首相(1972年)

 ミシン目が大きな集団にできやすいことは、自民党の歴史が物語っている。大きくなり過ぎた派閥は、時にバブルがはじけるように分裂する。

 例えば、最盛期には100人を超えるメンバーを抱えていた佐藤栄作元首相(在任1964年11月~72年7月)率いる佐藤派(周山会)は、後継の総理・総裁を決める場面で佐藤元首相が、佐藤派ではない他派閥の福田赳夫元首相を考えていたため、佐藤派にあって「ポスト佐藤」を 虎視眈々(こしたんたん) と狙っていた田中角栄元首相(同72年7月~74年12月)との間にミシン目が入った。

 結局、佐藤派からは、田中元首相を支持した多くの議員が独立・分裂する事態となった。

 田中元首相が退陣後もキングメーカーとして君臨する土台となった田中派(木曜クラブ)も100人を大きく超える膨張を遂げ、総理・総裁の座を目指した竹下登元首相(在任87年11月~89年6月)が分裂含みの動きを見せた。田中元首相が病気で倒れて竹下元首相が大勢を掌握すると、一部のベテラン議員らは竹下派への衣替えを潔しとせず、 (たもと) を分かった。

 やはり100人超の大派閥となった竹下派(経世会)は、実権を握った金丸信・元自民党副総裁のヤミ献金事件を機に分裂し、羽田孜元首相(在任94年4~6月)と小沢一郎・元自民党幹事長(後に民主党代表、自由党代表などを歴任)のグループが派閥のみならず自民党からも飛び出して、新生党を結成した。

 大きな派閥が分裂を繰り返すのは、人数が多過ぎてメンバー同士の意思疎通が難しくなることが要因の一つだろう。派閥トップが総理・総裁を務め終えたのに、衆目が一致する後継者がいなかったり、有力者が複数いて一本化が困難だったりすると、遠心力はどんどん大きくなっていく。

 宏池会は、池田勇人元首相(在任60年7月~64年11月)、大平正芳元首相(同78年12月~80年6月)、鈴木善幸元首相(同80年7月~82年11月)、宮沢喜一元首相(同91年11月~93年8月)を輩出した名門派閥だ。かつて所属していた麻生太郎元首相(現・自民党副総裁)や菅義偉前首相を数に入れなければ、宏池会出身の首相は岸田氏が約28年ぶり5人目となる。

 宏池会も、宮沢政権だった92年頃には竹下派に次ぐ80人を超える大所帯になっていて、宮沢内閣の退陣後、後継者をめぐる派内の対立が顕在化した。

 98年に宏池会の会長が宮沢元首相から加藤紘一・元自民党幹事長に交代することが決まると、反発した麻生氏らが派閥を離脱し、宏池会で加藤元幹事長とライバル関係にあった河野洋平・元衆院議長のもとで河野グループ(大勇会)として独立した。大勇会は、現在の麻生派(志公会)の原点となった。

 その後も宏池会は、加藤元幹事長らが森喜朗内閣に対する野党提出の不信任決議案に賛成しようとした2000年の「加藤の乱」が失敗に終わったことで、加藤元幹事長に対する支持、不支持をミシン目に再分裂した。

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