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対コロナ「敗戦」、英スパイ小説家ル・カレの冷徹さに学べ

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編集委員 片山一弘

 英国スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレが昨年末、世を去った。彼が残した作品群はスパイといっても007のような派手なアクションではなく、人間とその社会についての深い洞察に基づく展開に特長がある。

ジョン・ル・カレ著「スクールボーイ閣下」(ハヤカワ文庫)
ジョン・ル・カレ著「スクールボーイ閣下」(ハヤカワ文庫)

 代表的な主人公が、老練な英国情報部員ジョージ・スマイリー。映画「裏切りのサーカス」の原作でもある「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(ハヤカワ文庫)で、スマイリーは情報部の中枢に巣くった二重スパイを突き止めることに成功するが、その代償として組織は壊滅的な打撃を受ける。

 そして、続編「スクールボーイ閣下」(同)で情報部の責任者に就任したスマイリーは、立て直しの第一歩として、二重スパイが組織内で行った工作の足跡を遡り、敵の黒幕のはかりごとを突き止めようとする。

 反撃の手がかりは敗北のありようの中にこそある、というわけだ。

 近ごろ新型コロナウイルス、特にワクチン関連のニュースで、しばしば「敗戦」の2字を見かける。

注射器に移される新型コロナウイルスのワクチン
注射器に移される新型コロナウイルスのワクチン

 イスラエルや英米などワクチン接種で先行した国々は、感染抑制に目覚ましい成果を上げている。日本では国産ワクチンがいまだ完成を見ず、輸入ワクチンの接種でも大きく差をつけられている。

 ではそれらの国々は、いかにしてワクチンの早期接種を実現したのか。関連報道に目を通すと、着手の早さと徹底ぶりが目につく。

 例えばBBCの日本語版サイトに3月29日に公開された記事「イギリス政府はパンデミックとどう闘ったか 1年間の舞台裏」では、英国政府が昨年の早い段階から巨額の資金をワクチン開発につぎ込むと決めたこと、それが賭けに近い判断であったことが強調され、有力官僚の一人は「納税者の税金をあれだけ使って、成功しなかったら、どうなっていたことやら」と語っている。仮に、同時期に日本政府が同じ賭けに打って出ようとしたら国民はどう反応しただろうか、と考えると興味深い。

 人類は新型コロナの感染を防ぎきれず、多くの命を失った。程度の差こそあれ、地球上の国と地域の大半は、まだ「敗戦」だろう。

ジョンソン英首相
ジョンソン英首相

 この1年半、世界中が一斉に同じ試練に直面したことで、それぞれの国のありようの違いが浮き彫りになった。対策として何ができて何ができなかったかは、それぞれの法や医療制度、産業構造、国民性などに深く関わっている。

 だから、自国のコロナ対策の良い点悪い点を他国と比べながら検証することは、国の自画像を描くことにも似ているはずだ。

 感染症などの緊急事態に負けない国を築こうとするなら、スマイリーのように対コロナ戦から学ぶことは不可欠だ。そして、そのためには今が肝心な時期ではなかろうか。日本でも遅まきながらワクチン接種が軌道に乗り始めている。仮に集団免疫の獲得が見えてきたら、我慢に我慢を重ねてきた個人も法人も平常に戻ろうと一気に動き出す。そうなってから何かを変えようとするのは難しそうだ。

 ル・カレが2017年に発表した小説「スパイたちの遺産」(同)では、前述の「ティンカー……」など冷戦時代の傑作で活躍したスパイが引退生活から呼び出され、往時の作戦で犠牲になった情報部員らの遺族に告発されて、現在の組織に責任を追及される。

 ほろ苦い設定である。当時80代半ばの老齢とは思えない柔軟な発想、自身の代表作を現代の価値基準で容赦なく検証してみせる冷徹さに感服した。

 己の失敗や敗北から学ぶためには、このくらいの強い精神と覚悟が必要なのかもしれない。

プロフィル
片山 一弘( かたやま・かずひろ
 編集委員。1987年入社。甲府支局、浦和(現さいたま)支局、図書編集部、週刊読売編集部、文化部(日曜版、放送担当、芸能担当デスク)などを経て、2015年から「よみうり時事川柳」選者を務める。

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2122943 0 広角多角 2021/06/14 14:26:00 2021/06/14 15:46:42 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210614-OYT8I50027-T.jpg?type=thumbnail

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