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沖縄は5月15日、1972年の本土復帰から50年を迎えた。
記念式典は、沖縄と東京の2会場を中継して行われ、岸田首相は式辞で「復帰から今日に至る沖縄県民のたゆまぬ努力と先人たちのご尽力に、改めて敬意を表する」と述べた。
「先人たち」で思い出すのは、2人の政治家を巡るエピソードである。

小渕恵三元首相は、沖縄での主要国首脳会議(サミット、2000年)の開催を決めたことで知られる。
事前の候補地選びで沖縄は、名乗りを上げた8都市の中で下位に甘んじていた。施設面や警備の問題で、条件的に劣っていたからだ。何よりも米国政府が反対していた。それをはねのけての政治決断だった。
当時、私は官邸クラブ詰めの記者だった。
休日のある日、小渕から電話をもらった。いわゆる「ブッチ・フォン」である。私は自民党担当の時、小渕をよく取材していた。
なぜそこまで、沖縄開催にこだわるのか。理由を聞いてみた。
「おれは死んでもいいぐらいの覚悟で沖縄サミットに取り組んでいるんだ。わかっているのか」
いつもは穏やかな小渕だが、その時の口調は怒気と
学生時代から何度も沖縄に足を運んできた小渕にとって「沖縄は第二の故郷」であり、強い思い入れがあったのだ。

もう一人は野中広務元官房長官である。
野中も京都・園部町長時代から沖縄にかかわり、「沖縄は私にとって特別な土地だ」が口癖だった。
自民党幹事長代理だった野中の訪沖に同行したことがある。橋本内閣の頃だ。
当時、大田昌秀知事が米軍普天間飛行場の県内移設に反対しており、政府与党と沖縄の関係がギクシャクしていた。野中としては大田と極秘裏に会い、パイプを作る狙いがあった。
夕刻、大田との会談を終えた野中をホテルのラウンジで待ち受けた。
「私と大田知事は同い年なんだね。話せたよ」
そう語ると野中はジョッキのビールを注文し、一気に半分ほど空けた。会談で気を張り詰め、よほど喉が渇いたのか。人前ではほとんどアルコールを飲まなかった人だったが、この時は特別だった。
日頃、怒気を発しない人が怒気をにじませ、アルコールを控えていた人がアルコールに手を出す。
沖縄への情愛がそんなところにほとばしる。