第70回読売文学賞 受賞6氏と作品

[読者会員限定]
無断転載禁止
メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

 第70回読売文学賞が決まりました。選考委員の選評を紹介します。受賞者インタビューは、4日から文化面に掲載予定です。

 

■小説賞 平野啓一郎 「ある男」

存在に届く思考実験

ひらの・けいいちろう 1975年、愛知県生まれ。北九州市で育つ。京大法学部卒。98年「日」で作家デビュー、同作で芥川賞を受賞した。『決壊』で芸術選奨新人賞、『ドーン』でドゥマゴ文学賞、『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞を受けている。
ひらの・けいいちろう 1975年、愛知県生まれ。北九州市で育つ。京大法学部卒。98年「日」で作家デビュー、同作で芥川賞を受賞した。『決壊』で芸術選奨新人賞、『ドーン』でドゥマゴ文学賞、『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞を受けている。

 家族、係累、友人知己とともに世間に暮らす「この」自分自身と、人は何とかかんとか折り合いをつけて生きてゆくほかはない。しかし、「この男」である自分に飽き足りず、あるいはそれが疎ましく、「ある男」として、The ManではなくA Manとして生まれ変わってみたいという欲望が、心の底にふつふつと湧いてくることもないではない。自分が「この男」であることを保証する決定的根拠は、最終的には戸籍であろう。ではその戸籍を他人のそれと交換してしまったらどうなるのか。それで「ある男」になれたとして、それがはたして幸福な人生なのか。

 『ある男』は、自分が自分であるとはいったい何かという根源的な問題を、ミステリ仕立ての巧緻こうちなプロットとして展開した傑作である。戸籍売買という三面記事的な事象を手掛かりに、個と共同体のはざまで揺らぐ生のありようを見据え、人間存在の深部にまで届く思考実験を繰り広げてみせた平野啓一郎の手腕には、敬意を表さざるをえない。物語の狂言回しとして、「ある男」が「どの男」なのかという探求に乗り出す在日三世の弁護士の方もまた、アイデンティティの不安を抱えているという設定が秀抜だ。安部公房の衣鉢を継ぎ、観念的主題と物語的趣向を豊かに共鳴させた、めざましい文学的成果がここにある。(松浦寿輝)

 

■戯曲・シナリオ賞 桑原裕子 「荒れ野」

「チェーホフ的」が深化

くわばら・ゆうこ 1976年生まれ。東京都出身。劇作家、演出家、俳優。劇団KAKUTA主宰、穂の国とよはし芸術劇場PLAT芸術文化アドバイザー。「甘い丘」(作・演出)で文化庁芸術祭新人賞、「痕跡」で鶴屋南北戯曲賞。本作でハヤカワ「悲劇喜劇」賞。
くわばら・ゆうこ 1976年生まれ。東京都出身。劇作家、演出家、俳優。劇団KAKUTA主宰、穂の国とよはし芸術劇場PLAT芸術文化アドバイザー。「甘い丘」(作・演出)で文化庁芸術祭新人賞、「痕跡」で鶴屋南北戯曲賞。本作でハヤカワ「悲劇喜劇」賞。

 戦後日本人が「核家族」という幻想を育んだ「団地」の2DKという巣箱は、今やすっかりもぬけからと化している。この蛻の殻を劇空間として再生利用し、そこに既に解体したはずの疑似家族を呼び戻すと、果たしてどんなドラマが出現するか。

 チェーホフの戯曲を読む時、人物たちの関係の分からなさから始まって、ある時、突然彼らの存在の切実さと関係性が一挙に迫って来る。桑原裕子の戯曲は、傑作『痕跡(あとあと)』(二〇一四)でもそうだったが、『荒れ野』では一層そのようなチェーホフ的作劇術のスリリングな深化が見られて、感心した。

 電気を消した夜の団地の一室に、女性と二人の男性が横たわっている。外から救急車や消防車のサイレン、風のうなり、炎がぜる音が響く。近くのショッピングセンターと新興住宅街が燃えているのだ。そこへ火事を逃れて三人(夫婦と娘)が転がり込んで来る。この六人が八畳間で鍋をしたり、寝たりするだけの一晩のドラマなのだが、舞台の袖で発せられる声を含めたポリフォニックな言葉・台詞せりふの交換によって、六人の関係にドライヴがかかってラストへと運ばれる展開は絶妙である。

 夜明けと共に、ちっぽけな空間に寂寥せきりょうとした荒野が広がるのだが、この寂しさには昧爽まいそうのすがすがしさも欠けていない。(辻原登)

 

■随筆・紀行賞 西成彦 「外地巡礼 『越境的』日本語文学論」

独創的思想の「旅人」

にし・まさひこ 1955年生まれ。兵庫県出身。東京大大学院人文科学研究科博士課程中退。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。日本比較文学会長。著書に『森のゲリラ 宮沢賢治』『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』(芸術選奨新人賞)など。
にし・まさひこ 1955年生まれ。兵庫県出身。東京大大学院人文科学研究科博士課程中退。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。日本比較文学会長。著書に『森のゲリラ 宮沢賢治』『耳の悦楽――ラフカディオ・ハーンと女たち』(芸術選奨新人賞)など。

 西成彦氏は、「移動文学」という観点から文学研究に携わってきた比較文学者である。その姿勢は、伝統的な「比較文学」の枠に閉じ込めるにはあまりにダイナミック。彼は驚くべき健脚の旅人であって、国境や言語をやすやすと超え、ポーランド、世界に離散したユダヤ人社会、カリブ海、ブラジルなどを次々に探索してきた。そして本書『外地巡礼』のフィールドとなるのは、日本の周辺に広がる「外地」だ。

 ただし本書の「外地」は広く柔軟な概念である。「外地」と言えば普通は、かつて日本が植民地として領有していた朝鮮半島・台湾や、さらに満州(現中国東北部)や南洋諸島などを指すが、西氏は「日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きる」場としてとらえ、北海道も、沖縄も、さらには日本人が移住して行った先の北米・南米も視野に入れる。

 かくして本書は、通常の日本文学史の枠をはるかに超え、東アジア文学史という大きな構想の中で「日本語文学」を追って文学紀行を続けた稀有けうの記録となった。講演、フェイスブックにつづった日録、論集への寄稿など、様々な文章が渾然こんぜんとなって織り成す光景は驚異的に豊かで、複雑な陰影に富む。

 この著者には、ポスト植民地主義コロニアリズム批評の到達点に立つ独創的な思想家としての風貌ふうぼうが備わっている。(沼野充義)

 

■評論・伝記賞 渡辺京二 「バテレンの世紀」

満ちる人間的な逸話

わたなべ・きょうじ 1930年、京都生まれ。法政大社会学部卒。日本近代史家、河合文化教育研究所主任研究員。『北一輝』で毎日出版文化賞、『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞、『黒船前夜』で大佛次郎賞。他の著書に『日本近世の起源』など。
わたなべ・きょうじ 1930年、京都生まれ。法政大社会学部卒。日本近代史家、河合文化教育研究所主任研究員。『北一輝』で毎日出版文化賞、『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞、『黒船前夜』で大佛次郎賞。他の著書に『日本近世の起源』など。

 歴史とは過去の人間たちの営みを素材とした文学である。

 バテレンはパードレのなまり、パードレはカトリックの神父。十六世紀半ばにキリスト教に接した日本人はこの信仰をバテレンとか切支丹と呼んだ。

 これはほぼ百年にわたる日本人と西欧文明の交渉を詳細に描く優れた歴史書である。多くの史料を巧みにさばいて、時代の相を生き生きと伝える。

 何かを立証するために史実を恣意しい的に用いるのではない。先入観を排し、起こったことを辿たどるうちに一つの流れが見えてくる。「後世の目には必然と映るような歴史過程は、そのときどきに生じた偶然の連鎖の結果であることが多い」と著者は言う。

 ポルトガル人は初めは布教を思ったが、やがてそれが黄金や奴隷や香料の貿易という利につながることに気付く。宣教師と軍人と商人が手を結ぶ。彼らが東洋の果てに見出みいだしたのは、文字が普及し、安定した国家を営み、知的好奇心が旺盛な国、日本だった。

 キリスト教は魅力的でこの国にあっという間に広まった。故に支配者の警戒を誘い、禁教に至った。十六世紀の最初の接触の時、西欧と日本は対等だった。十九世紀の二度目の時は欧米の方が圧倒的に優位にあった。

 無数の人間的なエピソードに満ちた、正に読み始めると止まらない名著である。(池澤夏樹)

 

■詩歌俳句賞 時里二郎 詩集「 ()()(じま)

深い謎 読み解く興趣

ときさと・じろう 1952年生まれ。同志社大卒。詩人。郷里の兵庫県で高校教諭を務めながら詩作を続け、晩翠賞、現代詩人賞などを受賞した。既刊詩集に『採訪記』『ジパング』『翅の伝記』『石目』など。本作は第49回高見順賞にも決まっている。
ときさと・じろう 1952年生まれ。同志社大卒。詩人。郷里の兵庫県で高校教諭を務めながら詩作を続け、晩翠賞、現代詩人賞などを受賞した。既刊詩集に『採訪記』『ジパング』『翅の伝記』『石目』など。本作は第49回高見順賞にも決まっている。

 名井島はあらゆる名辞の湧く井戸のであり、同時に何処どこにも無い島である。その在るとともに無い島がI・2・3・4、四つの歌いかた、ないし語りかたで歌い語られる。Iではそこへの接近のしかた、2では渡った者のコロニーとしての島、3では歌の精煉所せいれんじょとしての島、4ではリハビリテーション施設としての島。それぞれにおいて発語者であるわたしは、ヒトであり、ヒト標本であり、歌人うたびとであり、初期型アンドロイドである。そのわたしは、Iでは通訳である栗鼠りすに、2では庭師と呼ばれる男女に、3では猫である歌窯うたがまの主に、4では伯母と称する看護師に伴われている。

 こう解説すると荒唐無稽のようだが、読み進むにつれて読者である自分が、ヒトからヒト標本に、歌人に、初期型アンドロイドに思えてくるから、不思議だ。思うに作者自身そのひとつひとつになりきって歌い語っているからだろう。

 4のあとに星印を置いて「母型」という一章があるが、これは一種の後書きと読むべきもの。文体上本文に共通する形になっているのは、読者がもう一度本文に帰って読みなおすための用意なのだと思われる。じじつ読みなおすごとに作品の謎は深まり、読み解く興趣は増す。平成三十年の締めくくりに誕生した現代詩の、そして現代詩の域を超えた文学全体の貴重な収穫であることは、間違いない。(高橋睦郎)

 

■研究・翻訳賞 古井戸秀夫 「評伝鶴屋南北」全2巻

名優らの正確な描写

ふるいど・ひでお 1951年、東京都生まれ。早大演劇科で郡司正勝に師事。早大教授、東大教授を経て、東大名誉教授。専攻は演劇学・舞踊学、歌舞伎研究。著書に『歌舞伎―問いかけの文学』『歌舞伎入門』『新版舞踊手帖』。編著に『歌舞伎登場人物事典』。
ふるいど・ひでお 1951年、東京都生まれ。早大演劇科で郡司正勝に師事。早大教授、東大教授を経て、東大名誉教授。専攻は演劇学・舞踊学、歌舞伎研究。著書に『歌舞伎―問いかけの文学』『歌舞伎入門』『新版舞踊手帖』。編著に『歌舞伎登場人物事典』。

 全二巻、千六百ページ余り、二万七千円。買うに高価、読むに大変なこの本があえて選ばれたのは、第一に江戸時代の文化のネット・ワークの基本図書の研究成果による。しかし第二には読み物として面白いからである。

 歴史は史実研究の上で正確でなければならない。歴史が科学である以上当然である。と同時に歴史は読者の眼前に生きて面白くなければ文学としては認められない。膨大で高価という困難な条件にもかかわらず、この本が選ばれた理由は、その二つの条件を満たして優れていたからである。

 表題通り、歌舞伎の劇作家鶴屋南北を中心に、その作品を初演した名優たち、劇場関係者、スタッフはもとより、劇場に集まった文化人たち――音楽家、小説家、画家、詩人、舞踊家から無名の多くの観客の反応に至るまで。各分野の資料を駆使して、彼らの市井の生活がさながら大河ドラマを見るごとくに描かれている。

 むろん南北の戯曲は全集で読むことが出来る。実際にその上演された舞台を見ることも出来る。しかし時にこの本を読む方が面白いと感じさせるのは、一つは南北が座付作者として初演の名優たちの身体、芸風にあてて書いているからであり、もう一つはその名優たちの姿が活写されてこの紙上に生きているからである。

 そこが本書の価値である。

(渡辺保)

 

■選考委員(50音順)  池澤夏樹(作家)、荻野アンナ(作家、仏文学者)、川上弘美(作家)、川村湊(文芸評論家)、高橋睦郎(詩人)、辻原登(作家)、沼野充義(文芸評論家、ロシア・東欧文学者)、野田秀樹(劇作家)、松浦寿輝(詩人、作家、批評家)、渡辺保(演劇評論家)

■贈賞式 2月20日午後6時30分から、東京・内幸町の帝国ホテル。

419044 1 エンタメ・文化 2019/02/02 05:00:00 2019/02/02 05:00:00 2019/02/02 05:00:00 特集面用、読売文学賞を受賞した平野啓一郎さん(1月23日、東京都千代田区で)=米田育広撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/02/20190201-OYT8I50054-T.jpg?type=thumbnail

アクセスランキング

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)
ページTOP
読売新聞社の運営するサイト
ヨミダス歴史館
ヨミドクター
発言小町
OTEKOMACHI
元気ニッポン!
未来貢献プロジェクト
The Japan News
美術展ナビ
教育ネットワーク
活字・文化プロジェクト
よみうり報知写真館
読売新聞社からのお知らせ