信長切腹「夢にも思わなかった」…本能寺の変、明智軍の武士が述懐
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NHK大河ドラマ「

記録は「本城惣右衛門覚書」と呼ばれ、戦国時代から江戸時代初期、丹波国(京都府中央部と兵庫県東部)を拠点としていたとみられる武士・本城惣右衛門が、晩年の1640年、若い頃の戦功を書き残したもの。天理大付属天理図書館が所有している。
「あけちむほんいたし(明智謀反いたし)」から始まり、本能寺の変について、「信長様を切腹させようとは夢にも思わなかった」と述懐。また、当時の本能寺の様子について、「門は開いていて、ねずみさえもいない」「蚊帳がつってあるばかりで、人はいない」と記している。また、首を二つ取った褒美として、槍をもらったと書いている。
この資料は、昭和に収集家が存在を公表する以前の出所が不明だったことや、若い頃の記憶を高齢になってから思い出して書いたことなどから、
しかし、近年、研究者の間で再評価する動きが出てきた。
備中(岡山県西部)の羽柴秀吉への援軍に向かおうとしていた明智が京都へ方向を変更したことについて、これまで、惣右衛門が「上洛していた徳川家康を討つ」と理解していたと解釈されていた。明智が徳川を討つ理由がないため、記録に疑いを投げかける一因となってきた。
しかし、改めて記録を検討すると、文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していたのが正しいとわかった。
天野忠幸・天理大准教授(中世史)は、筒井順慶も京へ進軍している記録が残されていることから、「織田側の武将が京へ集結してから中国地方へ向かおうとしていた動きからみても、惣右衛門の解釈は理解できる」と指摘。「これまで本能寺の変の研究では重要視されてこなかったが、貴重な明智側の従軍記録であり、改めて意義のある史料として扱われるだろう」と話している。
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特別展は12月14日まで。火曜休館(11月3日開館、翌日休館)。問い合わせは天理参考館(0743・63・8414)。